R18恋愛官能小説 青山倉庫

掌編

01. あのひと


 あのひとが妾(わたし)に下さったのは、瑠璃色の簪と、紅と、瓶詰の香水でした。
 可笑しいじゃありませんか。妾が最も欲していたのは、あのひと自身に過ぎないのに。妾はなにも知らなかったのです。あのひとに奥様がいらっしゃったなんて。

 妾はあのひとのお煙草が嫌いでした。あのひとが新聞記事について語るのも、学のない妾にはチンプンカンプンで、それでも妾はあのひととお話しできるだけでも幸せでした。妾は躰が弱くて学校に通うこともありませんでしたが、それは妾が家の倉の二階に監禁されていたせいで、お日様に当たらずに育ったからだと妾の乳母が教えてくださいました。妾のお友達と言えば、乳母が下さった小さな押紙の人形だけで、妾はお天気の良い日はお人形にずっと話しかけているんです。そうすると、心配した乳母が妾のために、新聞や、小説や、随分古くなった雑誌の記事の切り抜きを持ってきてくださるのです。
 そうして時間を潰して、週に一二度、あのひとは妾に会いに来てくださいました。妾と一緒に夕食を食べて、妾とお喋りをなさって、その後で、妾の躰を愛でてくださるのです。妾もあのひとの望むまま、あのひとの躰に尽くし、妾が上手に奉仕すれば、あのひとは妾の口の中で果てることもありました。ですが、あのひとは決して倉のお二階には泊まろうとしませんでした。
 ある日、あのひとの奥様と名乗るおんなの方が訪れ、妾に根掘り葉掘り様々なことを質問なさるのです。妾には奥様の求める答えなどわかりませんから、ただ俯いて首を振るだけ。妾の乳母にもきつく問い詰めるのを聞いて、妾は恐ろしくなって奥様をお二階の階段から突き落としてしまったのです。倉の階段ははしごのように急なものですから、真っ逆さまに墜落した奥様は首がおかしな向きに曲がってしまい、もうピクリともしませんでした。

 妾が乳母と共に、奥様の屍体を隠してからもう三月が過ぎようとしています。何食わぬ顔で、こうして姿見に向かって、あの方の下さった紅を塗り、髪を梳かし、あのひとが訪れるのを心待ちにするのです。奥様の消息が絶えてこのかた、あのひとが倉のお二階を訪れる機会が増えました。週に二三度、いいえ、もっと多い日もあるかもしれません。こうして、あのひとの心が妾の手の中に滑り込んでくるとなれば、妾はどんな罪業さえも苦しくはありません。無学なおんなであれど、そう想うに不思議はありません。

 その日の午後、倉を訪れたあのひとは、紅芋と糠漬けを召し上がりました。倉の下の糠床のなかには、あのひとの奥様が今も眠っておいでです。
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