R18恋愛官能小説 青山倉庫

69H

01. 蕾


 私はあの方と週に三日は逢っておりました。
 あの方は戦争でご主人に先立たれ、女手ひとつで娘をお育てになり、碩学崩れの私のようなものを邸宅へお迎えくださいました。嘉納史穂様。
 私は羅甸語が読めましたから、史穂様のご主人の残した研究を翻訳するお手伝いをさせて戴いておりました。お座敷に並べた洋書と辞書の間から、史穂様は自らお茶を差し出してくださいました。
「有り難う。この翻訳は、程なく仕上がります」
「あら、あとどの位ですの」
「週末には」
「そう」
 史穂様は私の掌に指を滑らせ、私の胸元に吐息をかけ、もういらしては下さらないの、とお聞きになりました。色恋に饂飩な私にも、史穂様が欲するところに気づかぬわけがありませぬ。私は、史穂様の肩を曳き寄せ、御望みならいつでも、そう応えたのです。
 東京の書店から取り寄せた豪奢な辞典が倒れるのも厭わずに、私は史穂様の唇を奪い、帯を解き、火照る柔肌に舌を這わせました。私は獲物を狙う猛禽の眼差しで、史穂様の麗しい曲線を滑り、踊り、谷底へくだり、煮え滾る女陰を貪るのです。
 恋は幾度かしましたが、未熟な私には到底淡白なものに想えておりました。史穂様のことは好いておりましたが、私がほんとうに欲していたのは史穂様の肉躰のほうかもしれません。
 史穂様は私の着物の隙間に指を滑らせ、私の漲る益荒男を苛めました。私は堪え切れずに、史穂様の谷間に覆い被さり、一息に底まで達したのです。煉獄の炎がふたつのぎやまんを熱く熔かしてひとつにするように、私と史穂様はいくつものかたちに絡み合い、解れ、雫が畳を濡らすのも構わずに、幾度も精を放ち、夕陽が庭の椿を紅く彩る頃まで、果てることなく互いを求め合うのです。

「史穂様、一緒に食べませんか」
「まぁ、かわいらしい」
 私はしばしば、神社の近くにできたばかりの茶屋で、白梅や菊の蕾をあしらったお菓子を買うてまいりました。史穂様はいつも美味しそうにお召し上がりになりましたが、私の気持ちが晴れることはありません。
 業突く張り、簒奪者、遺産泥棒。
 さまざまな呼ばれ方で、私は周りのものに詰られ、罵倒され、時として殴られる有様です。十七で徴兵された私は呉市で軍艦に乗っておりましたが、躰が脆く、艦が陸砲台になる直前に、上官が船を降りるようお命じになりました。そのときも、私は身内から恥者と呼ばれていたので、もはや何も感じることはできませぬが、史穂様のことを想へば、鬱屈した気分にさせられるのです。
「お母様」
「音禰、どうしましたか」
「髪の毛がゆわいた」
「あら、貸してご覧なさい」
 史穂様の娘は髪の毛の解れを弄り、頻く史穂様に解いて貰いにおいでになります。齢十と三月の音禰殿は通われていた学校校舎が焼け落ち、青空のもとで授業を受けるのだと、教えてくださいました。私と史穂様とのわりなき仲をご存知ではありませんが、故に、私の膝のうえで手鞠歌を唄ってくださいます。
「おじさま、あたしには」
「ちゃんと取ってありますよ」
 音禰殿は縁側に腰掛けて、一番大きな菊の蕾を召し上がります。音禰殿の唇は紅を載せてはおりませぬが、椿の花弁のように赤く色づき、艶やかにかたちを変え、蕾を平らげてしまうのです。
「美味しかったわ」
 そう仰ってくださる音禰殿に膝をつかまれると、私は胸の高鳴りを抑えることができませぬ。其の稚い乙女は、庭で朝露に濡れる梅と同じであり、開きかけの蕾でありました。
 その夜のまぐわいの最中、褥を濡らす史穂様の中に音禰殿を見ておりました。それが幾ら罪業の苦しみを与えようと、穢れを知らぬ娘の蕾を欲するに不思議はありませぬ。私は史穂様に紅と白粉と簪を与えましたが、史穂様が得たのは虚栄と倦怠に過ぎませぬ。そして、幾度もの逢瀬が、私の心を史穂様からすこしづつ引き剥がして行くのです。葛藤の渦にあれど、人の心など、所詮そのようなものです。

 史穂様と契りを交わし、婚礼から七月と七日経った冬の晩、史穂様は最期の砒素の蕾を召し上がり、私の腕の中で眠りにつきました。私には、其れが、とても幸せな寝顔に写ったのです。いえ、若しかすると、史穂様は総てを看過されていたのかもしれませぬ。砒素の蕾は史穂様の躰をすこしづつ蝕み、私が音禰殿の床の間を訪れていることに気づいてしまったのです。離れてゆく夫の心を繋ぎとめるために、自ら毒の蕾を口にし、己が非業を受け入れたのでございます。
 あの方は、今わの際に、有り難うと、仰いました。
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