R18恋愛官能小説 青山倉庫

太陽ノ樹

第2話「金魚の中学校」


 担任は、田渡悦子先生。
 初めて登校して、ぼくは職員室で田渡先生のところへ行く。入学式に出られなくて、ぼくが何組のどの教室のどの席に座るのかしらないし、教科書だって貰っていない。しっているのは担任の先生の名前だけ。
 田渡先生は国語の先生で、背が高くて胸が大きくて、ぼくを一目みて「夏目くん?」と言い当てた。ぼくとお姉ちゃんはダークアンバーの髪のせいで目立つ。ぼくとお姉ちゃんのしらない父親の遺伝のせいで、小学校の頃は同級生と先生に苛められた。黒く染めたこともあったけど、ひどく髪が傷みます。
「あっ、ごめんね。教科書、まだ来ていないの」
「えっ、じゃあ、授業は…」
「夏目くんは、お姉さんの隣になるから、今日いちにちは見せて貰ってね」
 ぼくは、はあ、と生返事。職員室は女の先生ばかり。元女子校だから仕方がないのかもしれないけれど、女だけの空間は静かな空気がはりつめていて憂鬱になる。ぼくは先生の後について教室へあがる。先生は入り口で立ち止まり、振り返って耳打ちします。
「先生が合図したら教室に入って、自己紹介してね」
 先生が先に教室に入る。ぼくは入り口で待つ。心拍数があがる。ぼくは髪の毛以外にも身体的な特徴で冷やかされたことがあるから、初めてひとと会うときにいつもおなじ緊張におそわれ、身体が自然な所作を忘れてしまいます。学校が気を遣ってくれたのか、ぼくは三クラスのうちの一組で、お姉ちゃんとおなじクラスになるのだけど、お姉ちゃんとおなじクラスになるのは初めてで、それが支えになるとは思えない。おなじ顔でおなじ声の少女と毎日顔をあわせるだけにすぎません。
「夏目くん、入って」
 先生が合図をする。ぼくは引き戸を開けて教室に入る。二十六人の視線が一斉にぼくに降り注ぎ、一挙手一投足を注視されながらぎこちなく教壇にあがる。先生は黙っている。黒板に、夏目莉音と書かれている。そうだ、自己紹介。
「夏目莉音です。双葉千住小学校から来ました」
 お辞儀をする。二十六人中、二十二人が女子、男子は僅か四人であることに気づく。男子も女子も似たような制服だから、数少ない男子が目立たない。女子の間に埋もれてみんなちいさくなっている。識っている子がほとんどいない。窓際に座って脚を組んでる本田晃弥は小学校時代からの友達。廊下側の真ん中付近に小学校の元生徒会長の女子が座っているけど、名前もしらない。
「じゃあ、夏目くんは、お姉さんの隣に座って、教科書見せて貰ってね」
 ぼくはお姉ちゃんの隣の席に座る。お姉ちゃんが机を寄せてくれる。お互い癖毛で、おなじ美容院でおなじ美容師さんにおなじ髪型でカットしてもらっているから、制服以外にぼくたちを見分ける手段はない。ぼくは声変わりもしていないから、声だって似ている。しゃべり方も似ている。似ている尽くしで、ぼくは姉と一緒にいると得体の知れない戦慄きを覚える。
 鞄を置くときに姉の太股に目を落とす。金魚鉢の制服は中高で統一されていて、男女ともにブレザーで、女子のプリーツスカートは短くて、黒いニーソックスを履く。その太股が妙に艶めかしく、ぼくは視線をそらして筆記用具とノートを取り出す。食事の時以外に、お姉ちゃんにこんなに接近したのは何年ぶりだろう。おなじ家で生活する家族なのに、ぼくは姉の成長を知らずにいました。

 一時限目は国語だから、このまま田渡先生が授業をします。
 お姉ちゃんがぼくたちの間に教科書をひろげたとき、ふわりと女の子の匂いが漂って、それは確実に他の女子ではなくお姉ちゃんの匂いで、幼い頃に宇田川の旅館に泊まっておなじ布団に潜り込んでじゃれ合っていたときのお姉ちゃんの独特な清潔な匂いと違って、身体の芯までしみこんでくる甘さ切なさの急勾配。その動揺を悟られまいと唇を噛んで堪え難きを堪え、前から回ってきたプリントを後ろの女子にまわします。後ろの女子二人はひそひそ話をしていて、ぼくからプリントを受け取る視線が猜疑あるいは好奇心に彩られ、ただぼくは鈍感に振る舞ってプリントに目を落とし、字面をつらつら追いかけるのですがまるでまったく内容が頭にはいってこなくて焦る。
「これ、鉄槌だね」とお姉ちゃんが囁く。
「なにそれ?」
「夢野久作だよ。貸したじゃん」
「あ、電話のやつ」
「それが印象?」
「うん、電話。ジーコロロの時代だよね」
「もっと古いんじゃない? ぐるぐる回して交換手につないで貰う時代」
 家族で台湾に旅行に行ったとき、ツアーに同乗したオジサンオバサンたちに古い時代の話題を振られたことがあるけれど、今時のオジサンオバサンたちはそんなふうにジェネレーションギャップを感じたがる。だけど、ぼくも姉も歴史や時代小説や大正浪漫がすきだし、フロッピーディスクやカセットテープ、二眼レフカメラ、ファミリーコンピュータ、キン肉マン消しゴム、ガンプラ、ビックリマンシール、たまごっち、ミニ四駆、デジモン、消費税三パーセント、阪神淡路大震災、ゲームボーイ、あしたのジョー、ヤンキーの短ラン、マイコン、アイルトン・セナ、ジュリアナ東京、連合赤軍とあさま山荘、オウム真理教、クイズダービーはらたいらに全部とか、断片的で表面的な情報はネット世代にとっては純粋な知的好奇心で一度は調べたことのあるものばかりで、昭和に生まれ育ったオジサンオバサンたちを喜ばせることができなかった。だけど、ただひとつ、電話のことはわからない。ぐるぐる回して交換手、ジーコロロ、ピポパそれぞれバラバラに識っているだけで、いつから携帯が当たり前になったのか識らない。ぼくとお姉ちゃんはスマホをもたされている。キャリア決済できるガラケーを子どもにもたせるというのは、通話とメールができるクレジットカードを子どもにもたせるのと同義と言われるようになった。そうやって、電話の常識は識らないうちに自然とぼくたちの生活に溶け込んでくる。だから、だれも肝心なことは覚えていない。電話があたらしくなったところで、感動するひとなんていない。
「沖田くん、一行目から読んでください」
 先生に指された男子が起立する。一行目から読み始める。沖田と呼ばれた男子は目鼻立ちがハッキリしていて、声がよく通り、滑舌がよくて、流れるような朗読には躊躇いがない。スター性のある生徒が多い学校だときいていたけど、沖田みたいな子たちに囲まれてぼくがやっていけるのかと、不意にきもちが沈んでいく。
「莉音、大丈夫だよ、ウチらあてられないから」
「なんで?」
「役者とか、そっち系の子しか指さないみたい。沖田くんは劇団志望だから」
「沖田くんって、かっこいいね」
「でしょ? 女子に人気あるよ。あんまり女子と喋らないみたいだけど…」
 そんな話をしているうちに、沖田くんは三分の一くらい読み進んでしまう。先生が別の女子に交代させる。この調子だと、この授業だけで短篇ひとつを読み終えて、解説までしてしまうペース。金魚鉢は私立だから筆記試験もあって、平均に満たない学力の生徒は入学できないけれど、別に進学校というわけではない。もっと公立中学のように冗長で退屈な文章の一部抜粋をだらだら何ヶ月もかけて学ぶのかとおもっていたのですが、様子が違います。様々な意味で場違いな空気に飲まれて、厭な汗が噴き出し、ほのかに苦々しい唾液を飲み込んで、お姉ちゃんの指先が、すすとぼくの太股を撫でました。
「莉音、具合悪い?」
「ううん、平気……」
「具合悪かったら、すぐに言ってね。無理して倒れたら、やだよ」
 そう囁いて、ぼくをみつめ、ぼくの太股の付け根を撫でる。厭な気はしないけど、身体の一部分が充血してしまう。妹を膝のうえにのせてもおなじ生理現象が起こり、また、ぼくのその部分は、他の子よりも大きくて、小学生のときの同級生たちに冷笑の対象となっていた暗い記憶もあります。

 その日の授業はずっとお姉ちゃんがくっついて教科書をみせてくれて、ときどきひそひそ話をしてくれて、お昼もひとりぼっちにならずに済みました。お姉ちゃんとぼく、晃弥、眼鏡をかけたオタクっぽい男子の四人は他校から金魚鉢に入学した新入生で、それ以外の子たちは小学校から金魚鉢学園の生徒だそうです。休み時間も騒ぐ子がいなくて、静謐な教室を身を焦がすほど規則的な流れが支配していて慣れないぼくはホトホト難儀して、夕方何事もなく、だれにも話しかけられることなく授業が終わり、溜息をついていると、ようやく本田晃弥がぼくに近づいて、言います。
「今日、なんかの祭りだって、莉音、行かね?」
「なんのお祭り?」
「駅前でやってるぜ」
「うん、行く。お姉ちゃんは?」
 お姉ちゃんは人見知りが激しいから、会話したことのない晃弥の前では急にしおらしく借りてきた猫のように大人しく首を捻ってとがった唇で何かを言いかけるのだけど、
「行こうよ、お祭り」
 そう遮って、ぼくはお姉ちゃんの腕を取る。お姉ちゃんは黙ってついてくる。
 部活に入っている子以外はみんな急いで下校する。ぼくのクラスは部活に入っている男子はいない。晃弥は陸上の推薦枠だけど、普段は大学で練習していて、練習のある日は学校に来ない。そうでない日は、暇をもてあまし、ぼくをあちこちに誘う。
 晃弥は自転車で登下校しているから、歩いているぼくとお姉ちゃんに、自転車にまたがってのろのろ併走する。
「あ、思い出した。八夫例大祭だ」と晃弥が言う。
「八夫祭りって、先月じゃない?」とぼく。
「震災で中止になったじゃん。お祭りの真っ最中だったぜたしか、揺れたの」
「山車は出るのかな?」
「山車は出てるって、さっき友達からメールきた。花火はやんないらしいけど」
「花火あがらないのかぁ」
「花火なんて夏にあげるので十分じゃん、まだ明るいし」
 橋にさしかかる。お姉ちゃんがふたたび手をつなぐ。欄干に『蜂の巣注意』と書かれた看板が錆びた針金でくくりつけられている。金魚鉢学園都市は新興のモデルタウン以外は山と森と川ばかりで、野生の猿やイノシシ、熊も出ることがあります。近代的な開発区画と自然が絡み合う計算高い設計に、ぼくらの識らない九十年代に想像された近未来都市の幻をみる。
「お姉ちゃん、蜂なんていないよ。まだ寒いから」
「怖いよ、襲われたら、逃げるところないじゃん」
「飛び降りるしかないね」
「すっごい高いよ、下、岩だらけだし、川なんてみえないくらい細い……」
 お姉ちゃんは虫が苦手で、高いところも苦手。ぼくもあまり好きじゃない。晃弥は陸上バカだから怖いものはなにもない。
「『伝染病』読んだぜ」と晃弥。
「持ってきた?」
「もうちょっと貸しててくれよ」
「いいけど、『怪物』は読まないの?」
「俺、劇団志望じゃないから、戯曲ばかり読んでもな」
 晃弥は本がすきだから、よく本を貸してあげる。小説とか戯曲とかエッセイ、活字の多い雑誌。ぼくらの世代は本が好きな子とそうでない子との落差が激しくて、前者と後者は友達になり難い。
「でも、晃弥はお芝居だか朗読だか、単位取ってるんでしょ?」
「あれ、全員必須だぜ。てか、この学校って全員舞台に立つんじゃなかったか。お芝居とかじゃなくて、服飾科のショーにかり出されるはずだけど、あれってモデルクラブだけかなぁ?」
「ぼく、今日が初登校だから…」
「制服とかも季節ごとにデザインしてて、投票で変わるんだってさ。制服も女子はスカート短いけどさぁ、体操服とかスクール水着とかヒドイよ。超エロイ」
「みたことない、パンフレットに載ってた?」
「載せるわけないじゃん。俺だって初めてみてびっくりしたよ。どうりで授業参観もないわけだ」
「寮住まいの子が多いんだってね」
「モデルとかデザイナー系はそうだね。九割寮生じゃないかな。女子寮しかないんだってさ」
 晃弥が指さした先に、お祭りの人だかりが見える。太鼓の音と笛の音色がきこえて、お蕎麦屋さんから良い匂いが風に混じり、綿菓子食べようとお姉ちゃんの手を曳きふと見上げた夕焼けの空が作り物のように美しく、不意に、遠くから、ぞう、と地鳴りが走り抜け、周りの建物総てがびしびしと響く。
「お、お、でかい、でかいでかい…」
 晃弥が自転車にまたがったまま空を見上げて、ぼくは晃弥をみていて、お姉ちゃんはぼくの腕を抱いて可哀想な表情で地面の水たまりのなかでゆらゆら揺れる夕焼けの濃いと淡いが混じり合うのをただ眼に入れ、駅前ロータリーの騒然と硬直を眇めるだけ。
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