R18恋愛官能小説 青山倉庫

太陽ノ樹

第1話「傷だらけのアリス」


 プレドニンを一錠、ネオラールを一錠、新しいカプセル錠剤を二錠、水でいちどに流し込み、ふたたびベッドに横たわる。新しいカプセル錠剤はジェネリック薬品で、大手ではなくソグナという会社のロゴが描かれている。
 ぬるい風がカーテンを揺らし、ぼくはじっと天井をみつめる。
 カタカタ、がたがたがた、サイドボードに載せた吸いのみとペットボトルが揺れてぶつかりあい、横揺れがぼくの背中を揺さぶる。余震、あるいは予震。じっとりと汗ばんだ手を握りしめ、ゆっくりと眼をとじ、まだおさまらない、怖い、家には誰もいないのですから、ぼくは最期の時を家族と離れたまま迎えるのかもしれません。
「莉音」
 だれかがぼくの名前を呼びます。瞼をあける。おさまったのか、まだ揺れているのか、天井からつるしたタオルかけがまだ揺れているようで、身体もまだ揺れているようで、カレンダーがまだ三月のままになっていることに気づく。
「りおん…、起きて」
 耳元で囁かれ、ぼくはゆっくり上半身を起こす。脚を一本ずつベッドから降ろす。ぼくは全裸で寝ています。ひとりのときは、いつもそうやって寝ています。下着に身体を締めつけられることが厭だからです。お医者さんは下着をこまめに替えるように云うのですが、ぼくはシーツをこまめに替えることで解決します。
「こっち」
 まだ、声がきこえる。ぼくは漸く立ちあがり、部屋着のジャージを着る。胸のところにマジックで大きく「五年二組 夏目莉音」と書かれた青いジャージは小学生の頃に使っていたもので、ぼくはその頃からあまり背が伸びていないので、当時の体操着を部屋着にするのですが、そういうだらしなさを姉と妹は嫌います。
 ぼくは部屋を出て、階段を下りる。しん、とした台所に冷蔵庫の微音だけが響く。まっすぐ廊下を歩いて、靴を履く。玄関を出る。曇り空、雨の香りが混じったぬるい風がぼさぼさの髪を巻きあげ、私立中学校に入学できたのに未だ登校せず毛玉に覆われたジャージを着て昼間からふらふら徘徊するぼくを隣近所のひとたちがどう見ているのかふと怖ろしくなる。
「歩いて、莉音、心配ない」
 識っている女の子の声だといまになって気づき、ぼくは路地を歩いて道路に出て、いつも渋滞している行政道路へ向かってあるく。ゴミ集積所、電柱、電柱、空き地、ガーデニング、電柱、闇金の看板、電柱、十字路、駐車場、右に曲がって、クリーニング店、電柱、そして公園。公園入り口の時計は、午後二時十分を指している。その真下に、傷だらけの少女がいた。
「莉音…」
「ありす?」
 それは妹の亜梨子でした。今日は学校に行っているはずの妹。ぼくは妹の姿に身構える。左腕にギプスをはめて、肩と首と頭にも包帯を巻き、右目に眼帯をつけて、唇の端が半分青くなった傷だらけの姿は異様で、ぼくをまっすぐにみつめる眼がぼくを識らない裂け目に誘い、こめかみに浮いた汗が頬を流れる。
「だれもかれも、くるってる」
 妹が云う。ぼくは妹をみつめたまま、春の匂いを感じて、浮き足立つ。
「あたしは、許さない」
 妹が云う。ぼくは妹をみつめたまま、首をかしげる。
「みんなで人形になろう」
 妹が云う。

 一年前、小学校六年生のとき、ぼくは心臓の移植手術を受けました。
 基地が近くて窓が開けられないのに教室にエアコンなんて無くて、もともと病弱だったぼくは熱中症で倒れて昏睡し、そのときの精密検査で心疾患がみつかった。ぶっきらぼうな担当の外科医に初めて会った日、お前死ぬぞと脅され、二晩ほど泣いておののいてスッカリ生気が抜けたぼくに、お姉ちゃんがドナーがみつかったから助かるよと囁いてくれました。
 ぼくは手術が終わればまた元の生活に戻れると甘い見通しでお医者さんの話を聞いていたのですが、術後の経過が悪くて一ヶ月以上も入院が続き、退院してからもずっと薬を飲み続けなければならず、ほとんど学校にも通えないまま、小学校最後の一年を孤独にすごしたのです。

 夏目くん、夏目莉音くん。
 男性の太い声に起こされる。夕日にそまる空と公園の時計を背景に、黒いシルエットが二人、仰向けのぼくを覗き込む。
「夏目くん、こんなところで寝てちゃ駄目だ」
 恰幅のいい男性がぼくに言う。もう一人の四角い顔の男性が、ぼくを見下ろして言う。
「渡辺先生、知り合いですか?」
「ああ、お父さんの方とよく釣りに行くんだ。ほら、立って」
 恰幅のいい渡辺先生がぼくに手を貸してくれる。ぼくはよろよろ立ち上がり、お辞儀をする。スイマセンと呟く。
「夏目くんは身体弱いんだから、道端で寝てはいけないよ」
「はい先生、ご迷惑をおかけしました」
 もういちど深くお辞儀をして、ぼくは来た道を戻る。渡辺先生と、もう一人は識らない顔だった。渡辺先生は金魚鉢学園の学年主任で、入学手続きのときに面接で会ったことがある。太っていて、禿げていて、眼が細くて何を考えているかわからない。ぼくが小学生だった頃から、お父さんと釣り友達だ。お父さんは、渡辺先生のことを魔人ブウと呼んでいる。ぼくは魔人ブウがなんなのか識らない。
 クリーニング店の前をパートのおばさんが掃除をしていて、通りの向こうから制服を着た中学生たちが下校してくるのが見えて、ぼくは細い路地に曲がって、遠回りをして帰宅する。

 食卓。
 手作りの折りたたみテーブルにはお寿司が並んでいて、上座にお父さん、その脇にお姉ちゃんの杏樹とお母さんが向かい合って座り、ぼくはお姉ちゃんの隣に座り、ぼくの向かいに妹の亜梨子が座る。亜梨子はどこにも傷が無く、ぼくがじっと観ている視線に気づいて、恥ずかしそうに眼を伏せる。
 ぼくとお姉ちゃんは双子で、お母さんの連れ子です。お父さんとは、ぼくたちがまだ物心つかないうちに再婚して、ほどなく生まれた亜梨子は異父兄妹にあたります。妹はまだ四年生になったばかりで、お姉ちゃんと違って無口で利発的な妹で、亜梨子と書いてありすと読みます。
「ウチの近辺って、停電するの?」
 お姉ちゃんが訊く。お父さんはお寿司を食べる手を止めて、食卓を見つめながら肩をすくめる。
「基地が近いから大丈夫だろ」
「前回より細かく地域分けされてたじゃない」
「停電して、こまることあるのか?」
「すごい困るよ。なんにもできないじゃん」
「いいじゃないか、ゲームもパソコンもすこし休んで勉強しろ」
「ネット使えないと宿題もできないもん」
 ぼくはお皿にサラダ巻きを載せて、亜梨子の前に置く。亜梨子はウニとイクラとタコが嫌い。お母さんが哀しそうな眼でぼくをじっと観る。
「中学はエアコンついてるのか?」
 お父さんがお姉ちゃんにきく。
「ついてるよ、私立だもん。教室も綺麗だし、黒板がすっごいの。黒いガラス製でホワイトマーカーで文字を書くんだけど、写真とか動画とかネットのページとか表示できるんだよ。でっかいタブレットみたい」
「莉音はいつから学校行ける?」
 お父さんがぼくに訊く。ぼくもお姉ちゃんも、おなじ私立中学に入学した。金魚鉢学園。小中高のエスカレータ式学園で、学園の母体となる舞洲グループが主催する劇団やモデル事務所への進路を絞った教育を施す女子校だったのですが、近年共学化して、定員も増えました。かつてはモデルという職種を確約された子たちばかりでしたが、ぼくたちが入った普通クラスはスポーツ推薦や競技者、カメラマンや職人などの特別な事情を持った子が増えたそうです。お姉ちゃんは二年前に『オフィスジラン』というモデル事務所にスカウトされて、撮影で忙しい時期はほとんど通学できないけど、お父さんとおなじくらい稼いでいる。その稼ぎのおかげで、病弱なぼくも金魚鉢に入学できたのですから、もっと感謝しなければいけません。ぼくは通院や身体的な事情で通学や授業が困難な場合があるので、そういう理解のある学校に通えることは幸いなのですが、通院のために入学式にさえ出ることができなくて残念でした。
「明日からいくよ」
「無理しないようにな」
「うん」
 新学期が始まる季節にはいつも黄色い気分でいられたこともあったのに、中学、という新しい世界と、思春期、という現象は位相幾何学的な思慮の変化を産み、その種のホモトピーは行動原理ではなく人に許された思惟の遊技に等しい。唇の端についたマヨネーズを拭き取る母親という女から解放され、識らない女の魅惑耽溺に縛られることのない、男の人生でかずすくない自由な三年間が始まろうとしているのに、無理をせず部屋に引きこもっていると、昼間のような幻聴がきこえてしまう。
「学校でお薬飲むの忘れちゃだめよ」
 お母さんが言う。
「忘れないよ」
「携帯は持って行けるの?」
「大丈夫だよ」
 妹がごちそうさまと言って、ぼくの袖を曳く。ゲームしようと言う。ぼくもごちそうさまをする。お皿を片付ける。妹はぼくと部屋を共有していて、いつもぼくと一緒に過ごす。四つもとしが離れているから、一緒に居ても気楽なのです。お姉ちゃんとは、近頃あまり一緒に過ごさない。双子で顔も性格も似てるから、一緒に生活すると普通に成長できないかもしれないとお医者さんに言われて、ちいさい頃から別々の部屋で育ちました。それ以前に、ぼくと妹には秘密があります。
 二階に上がる。ぼくの部屋にはテレビとゲーム機が置いてある。妹とくっついてお父さんが買ってきた野球ゲームで遊ぶ。ぼくは日ハムファンだけど、妹は球場が近いという理由で西武が好き。お父さんはオリックスファン。お母さんはロッテが好き。お姉ちゃんは野球に興味がないし、ゲームもあまりしない。妹と一緒に遊ぶ以外は、ぼくは全然ゲームなんてしない。中学になると授業の時間数が急激に増えて、テレビやゲームなんて暇はなく、宿題だってどっさり出る。数少ない余暇を一人で過ごしたくない。だれかと一緒にいたいというささやかな焦燥。
 ぼくに残された時間はすくない。
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