R18恋愛官能小説 青山倉庫

金魚博士の些末な日常

第14話「トラブル」

 一月二十二日、日曜日、午前七時十二分。
 昨夜、お父さんが痴漢で捕まりました。
 被害者は小学生の女児。お母さんは一晩中泣いていて、あたしも真優もほとんど眠れずに一夜を過ごしました。お母さんは、きっと何かの間違いだから、といいます。だけど、あたしはインターネットで痴漢冤罪で捕まるとどうなるか読んだことがあります。罪を認めるまで何日も拘束されて、その間に仕事は解雇され、あたしたち家族は路頭に迷うことになるのです。そういう不幸な家庭はしばしば日本のどこかに生まれているのだとおもいますが、まるでファンタジーの世界で、じぶんには永遠に関係のないことだとおもっていました。
 お母さんはキッチンでお湯を沸かして、沸かしたお湯をシンクに捨てて、再びお湯を沸かし直します。さっき片付けたコーヒーカップを再び食器棚から出して並べます。あたらしいカップなのに洗います。お湯が沸いて、お母さんはそのお湯をシンクに流してしまいます。その様子を、真優がじっとみていて、シュンはキッチンに背を向けて居間のコタツに座っていて、あたしはソファの上で胡座をかいて前後に揺れながら、雨戸が閉まったままのサッシに映るお母さんの奇行を眺めます。ふと顔をあげると、真優がぽろぽろ涙を流して泣いています。
「真優、こっちおいで」
 あたしは真優を抱っこして、大丈夫だから、と囁きます。真優はあたしの胸と二の腕の間に鼻先を埋めて嗚咽をもらしていましたが、やがて泣き疲れて寝息を立てます。あたしはそっと真優をソファに寝かせて、小さな毛布を肩にかけます。
「ねぇ、シュン。真優のことみててくれる」
「どこかいくの?」
「別役先生のところに行ってみる」
「どうして?」
「お父さんのこと、別役先生の仕組んだことじゃないかって、問いただすの」
「それならぼくも行くよ。沙希ちゃんひとりじゃ、危ないでしょ」
「平気よ、話し合いにいくだけだから。相手は女の人だし」
 あたしは着替えて、ダウンコートを羽織って、携帯を持って、家の勝手口から外に出る。玄関から出るとお母さんがうるさそうだから。自転車に乗って、真優に一度だけ連れて行って貰った別役先生のマンションを目指す。

 同日、午前七時五十七分、気温三度三分、北風。三条町二丁目九番地の袋小路つきあたりの五階建て鉄筋マンション一階一号室。
 ドアが開いている。中を覗き込むと、グレーの作業着を着たガス会社のひとと、焦げ茶色のジャケットを着てセカンドバッグを持った横分けのおじさん。
「あのー」とあたしは声をかける。
「はい? なんですか」
「別役先生の……」
「あー、もう引っ越ししましたよ。生徒さん?」
「はい、そうです」
 ガス会社の人がクリップボードを差し出して、スミマセンサインオネガイシマス、と言う。セカンドバッグのおじさんが署名する。ガス会社の人は、ありがとうございます、と言って頭を下げて、表に駐めてあったライトバンに作業道具を積み込む。
「どこに引っ越したか、わかりませんか?」
「いやー…私ね、ここの大家なんだけれども、私ここあんま来ないんですよ。不動産屋さんに任せてあるから、別役さんとも会ったことないし。どこに引っ越したかまではちょっとわからないなぁ」
 そうですか、と呟いて、あたしはその場を離れる。
 去年、家族が痴漢で捕まった子は転校を余儀なくされた。転校先で痴漢の事実がバレるとめちゃくちゃイジメられたらしくて、その後どうなったかわからない。
 大智に電話する。
「もしもし、沙希」
「大智くん、あたし」
「ああ、大丈夫? お父さんが……大変だって」
「やっぱり噂になってるんだ」
「俺は雷太にきいた。あいつが言いふらしてるみたいだから、ちょっと黙ってろって言ったけど……。もうクラスには伝わってるかもしれないな」
「どうしよう…」
「お父さんは帰ってきた?」
「ううん、まだ戻らないの」
「心配だよね」
「うん、でも落ち着いてきた」
「ほんと?」
「大智と喋ってたら、落ち着いてきた」
「じゃあ、お父さんが帰るまで家で待ってなよ」
「うん、そうする」
 電話を切る。このまま帰宅する気になれない。駅前まで行って、ミスドに入る。ドーナツふたつとコーヒー。席に着くと、後ろから声をかけられる。振り返ると、陽一。
「田神、ひとり?」
「うん、あれ、奈々は?」
「奈々?」
「つきあってるんでしょ?」
「俺が? 奈々と?」
「大智くんにきいたよ」
「つきあってねーよ。大智がお前とつきあってるんじゃないの?」
「うん、まーそうだけど……」
「えっ、マジなの?」
「だめなの?」
 陽一は立ち上がって、トレーごとあたしの席に移動してくる。日曜日だから、店内は家族連れが多くて、ざわついています。他人からみれば、あたしたちはカップルにみえるかもしれませんが、陽一とカップルにみられるのはちょっとしたステータスのよう。不釣り合いであってはいけませんから、あたしは急に背筋を伸ばしてツバキちゃんのようにおすまし顔。
「お前、大智の評判悪いのしらないの?」
「しらないよ、なにそれ」
「大智は奈々とつきあってたのしってる?」
「しらない」
「あいつ、奈々がヤラせてくれないからって殴ったんだよ」
「うっそだぁ、ちょっと待ってよ。奈々、あたしに『好きでいてくれる男の子に振り向いてあげて』って言ってたよ。それって大智のことだとおもう。それだと、奈々が大智とつきあってたって、オカシクない? しかも殴られたとか」
「それ大智のことじゃないとおもうぜ」
「じゃあだれ?」
「淳くんのことだろ。奈々は淳くんのこと、昔から知ってるみたいだし」
「シュンは……、まだ子供だし」
「お前だって子供だろ」
 記憶をたどると、そういえば、奈々が大智と喋っているところをみたことがありません。あたしが大智と喋っていると、離れていくか、背を向けたまま会話が終わるのをまっています。
「奈々は心配されたくないから、お前にはその話、してなかったんだとおもう。大智は家が金持ちってこと以外は良いところの無い奴だよ。人当たりはいいし、厭なところがなさそうに見えるから、余計たちが悪い」
「陽一くんは、あたしの家族の噂、きいてる?」
「なんのこと?」
「あー、まだ陽一くんには伝わってないんだ……」
 お父さんのことがどこまで伝わっているか知りたい。何人くらいがしってて、どれくらい誤解されているのか。だけど、ウチのクラスの女子はあまり大きなグループもなくて、みんなバラバラだから、誰かにきけばわかることでもありません。その分、噂の伝わり方も遅いかもしれない、と期待するしかありません。
「あたし、そろそろ帰らなきゃ」
「ごめん、俺余計なお世話だったね」
「ううん、あたしちょっと考えてみる。奈々とも話してみたいし」
 あたしはミスドを出て、自転車を押しながら家路につく。着信。妹から。
「もしもし? 真優?」
「お姉ちゃん…、お父さんがね」
「帰ってきた?」
「ううん、帰ってこないの」
「そっか」
「それがね、お父さん、昨日の夜には勾留を解かれてるって連絡があったの。自由になったってことだよね? だけど連絡もないし、今日はお休みだからお父さんの職場にも電話つながらないし、どうしていいかわからないの」
 待ってて、いま帰るから。そう言って電話を切る。自転車に乗って、緩やかな坂道をのぼる。ペダルを漕ぐたびに、冷たい風が頬を引っ張って、すれ違うひとびとの黒い影が長く伸びてちりぢりにちぎれていく。
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