R18恋愛官能小説 青山倉庫

金魚博士の些末な日常

第13話「古書」


 一月二十日、金曜日、十二時七分、お昼休み。
 その粒が水滴であることを捉えることのできないうちに、小雨はやがてみぞれへと変わります。
 松村奈々は風邪でお休み。あたしは陽一と一緒にお弁当を食べようとおもいましたが、引き出しに手を入れて、覚えのない硬い感触に気づきました。ハードカバーの本。とても古い本。あたしのしっている数少ない小説。字体が古くて読みにくいのですが、ひどく猥褻な物語で、去年、お布団を被って少しずつ読んだ覚えがあります。
 近親相姦の罪悪を苛み、崖から身投げしたおさない姉弟が孤島へながれ着き、ほとんど記憶をうしなっていた二人が一風変わった島の住人たちにたすけられ、健やかに成長していく記録。両親と離ればなれになってさみしさの募る二人はふたたび一線を越えてしまい、それから毎晩、やがては昼夜問わずひっきりなしに愛しあうようになります。そしてとうとうその行為が発覚し、住人たちによって姉弟は引き離されてしまいます。怒り狂った弟は住民の一人を殺め、姉を救い出しますが、姉は泣いています。どうしてまた人を殺したのと。姉はいいました。弟は幼い頃から異常性欲で、同郷の少女たちを大勢強姦し、とうとう一人を殺してしまったから、この隔離病棟のある島へ流されることになったのです。姉は弟の治療に身を捧げ、弟の性欲のはけ口となり、ようやく落ち着いていたときだったのに。二人は引き離されてなんかいなかった。それもこれも全部空想の世界。だけど人を殺したのは現実。住人たちに追い詰められ、二人は崖から身を投げるのですが、次のページでは海岸に流れ着く最初の場面に戻ります。目覚めた姉がこういいます。ここに流れ着くのは七回目、この島ではあたしたちは年をとらないの、永遠に、繰り返し、なんどもなんども罪を犯すの。もしかするとあたしたちはもう死んでいて、ここは天国かあるいは地獄かもしれない。
 ぱらぱらとめくった頁の最後に、図書館地下出入り口で待っています、と書かれています。本を持ったまま立ち上がって、あたしは教室を出る。すれ違った陽一に、あれっ?飯は?ときかれて、ごめんあとでーと答えます。この本は週末にはなかったから、今日いつのまにか引き出しに入れられていたはず。本の貸し借りをする仲にはよくあるメッセージの交換方法。自分の名前なんて書かなくていいし、誰かにみられても不思議に思われないし、メッセージに答えられなくても気づかないふりをすればいい。
 渡り廊下を走って転びそうになり、青い空に飛行機が一機飛んでいて白い線を描き、吐く息はもっと白くて、体育館脇の階段を駆け下りるとそこは図書館の地下出入り口です。誰も、いません。
「よお」
 背後から声をかけられて、あたしは肩をびくんとさせてしまって、慌てて振り返る。ガラスのドアを半開きにした岡本大智。この本を去年貸してくれたのは大智でした。
「寒いから入れよ」
「う…、うん」
 あたしは図書館地下の廊下に招き入れられ、大智に本を差し出す。大智は本を受け取りながら、言う。
「沙希、あのさぁ」
「えっ、あっ、うん……」
「大丈夫?」
「ダイジョブ…ダイジョブ、だよ」
「顔真っ赤だよ」
「これは、走ってきたから」
 あたしは両手で自分の頬を覆う。大智が沈黙。あたしも俯いて、薄暗い廊下の床に映る大智のマフラーをみつめます。意識のすみっこにしか居なかった相手とふたりきりで居ることが面映ゆく、ふたりきり、という状況が殊更ふたりの境界を浮き立たせることに、僅かなこころの余白すら奪われる。
「お昼は、食べた?」と大智。
「ううん、まだ」
「陽一と一緒に食べンの?」
「うん……、今日は奈々、お休みだから」
「なぁ、俺と一緒に食べねえ?」
「う……、いいけど」
「陽一が、奈々とつきあってるって、しってる?」
 あたしは初めて顔をあげる。全然、奈々はそんなこと。
「しらない。マジで?」
「二人に、きいた」
「そうなんだー」
「沙希は、誰かとつきあってる?」
 あたしは首を横に振る。緊張して、声が出ない。
「じゃあ、俺とつきあわない?」
 ああ、言われた、やっぱりそうだった。告白。本をみつけたときからそうじゃないかっておもっていた。週末、あたしは別役香奈先生のマンションに居て、シュンと真優の三人で記憶がなくなるくらいきもちいいことして、そのとき先生はハッキリいいました。
 あたしの言うことをきいて。あなたに告白してくる男子がいるけど、無碍に断って。曖昧に答えたり、ましてやOKなんてしてはだめ。二度と告白されないように、非道い断り方をして。そうすれば、このままあなたにとって一番のしあわせを与えてあげる。もし反故にしたら…。
 反故にしたら、どうなるというのでしょう。あたしは胸を張って答えます。
「いいよ」
「えっ」
「だから……、いいよ。つきあおう」
 そう答えます。非道い断り方なんて、おもいつかない。真優の先生に与えられるしあわせより、自分でつかむしあわせのほうがいいに決まっています。あたしは大智の手をとる。
「お腹すいたよ。一緒にお昼食べよう」

 午後五時二十五分。自宅。
 子猫のフクちゃんに晩ご飯をあげて、お着替えして、家族みんなでお出かけします。お父さんの車で、二つ向こうの駅まで。パルコの裏側、中華料理店の駐車場に車を駐めます。お店に入って、ご予約を確認。あたしたちは奥の円卓に案内されます。テーブルについて、メニューをひろげて、店員さんがお茶をもってきてくれて、注文して。
「沙希、お父さんがビデオカメラ買ったんだって。春になったらお花見に持って行こうね」
 お母さんがいいます。あたしと真優は、先生から返して貰ったビデオカメラを、こっそりお父さんの旅行鞄に押し込んでおきました。だけど、先生はSDカードを返してくれません。あたしはそのことがずっと心配。
「ここのお店、まえに来たときなに食べたか覚えてないよ」
「沙希は風邪ひいて家で寝てたでしょ」
「ええー、来てたよ。丸くてこういう色のドロっとした奴食べたもん」
「お姉ちゃん寝てたよ。あたしが一人で食べに行って、すごい嫉妬してたじゃん」
「そうかなぁ」
 あたしはメニューにふたたび眼を落とす。なんとなく覚えがあるお店の風景とメニューのせいで、一度来たことがあるとおもうのですが、寝てたといえば寝ていたのでしょう。あたしはあまり身体が丈夫ではありません。妹は小さくて大人しいくせに、とても頑丈にできています。たぶん、妹の方があたしより長生きして、妹の方がたくさん子供を産むはずです。
 シュンはお父さんにメニューを見せて、漢字だらけのメニューの読み方を教わります。真優がフクちゃんが寝るための籠を買ってあげたいといいます。あたしは、それなら学校の近くのペットショップじゃなくて、里見町のディスカウントショップに行ってみようと提案します。そうしているうちに料理が次々運ばれてきます。
 久しぶりの家族の団欒が、あたしにはなぜか遠いしあわせにおもえます。退屈で平凡な日常は、しばしば簡単に失われてしまう。あたしは、猥褻な本を告白につかった大智になにかを期待したけれど、一緒にご飯を食べた以外は、あたしを大事におもっているのか、手を握ってもくれませんでした。大智は、まだ童貞なのだとおもうけれど、あたしの若い身体は刺激を求めているのに、その欲求に答えてくれるのはシュンと妹の真優だけで、新しい彼氏はあたしに触れてくれません。
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