R18恋愛官能小説 青山倉庫

金魚博士の些末な日常

第9話「天体観測」


 一月十日、火曜日、午前八時三十二分、始業式。
「田神、ごめん!」
 教室に入るなり、あたしの前で岡本大智が土下座する。あけおめひさしぶり、言おうとした言葉を飲み込んで、あたしは二歩、後退る。
「なに? どうしたの?」
「俺のせいで、安西…」
 あたしは完全に忘れ去っていたことを思い出して、大智の腕を曳き、教室から連れ出します。
 告白しちゃえよ。
 あたしにとって重大な決意を耳にピアスの穴を開ける程度の軽さで勧めてくれた許し難い男子。あまつさえ教壇で土下座されてみんなの注目を浴びながら安西裕太への告白が失敗した醜聞を広められてはたまりません。あたしは大智の腕を掴んだままどんどん廊下を歩いて、外廊下まで連れ出します。
「ちょっと、みんなの前で言うことじゃないでしょ」
「そうか! 重ね重ねすまない」
 ダメだコイツ。サッカー部で安西裕太と同じくスポーツ万能だけど、繊細さの欠片もなくて、いろいろ忘れ物をしたまま中学生になってしまった子供のような奴。
「もういいよ、終わったことだし。気にしてないから」
「本当にごめん、悪かった。俺…」
「あたし安西の名前出るまで、ふられたこと忘れてたくらいだし。もういいの」
「そうか…」
 じゃあ、そういうことだから。あたしが教室に戻りかけると、手首を捕まれる。
「まって。お詫びがしたいんだ」
「えー、いいよ」
「俺ンち、ホテル持ってるんだけど、親父がディナーパーティに誘っていいって。家族で来ていいから」
「なにそれ、なんかオオゴトじゃない」
「大丈夫だよ。田神ンちとは、昔PTAの頃は家族づきあいがあったし、お母さんに話してみてくれよ。ウチの親父も久しぶりに田神さんと話したいって言ってるし」
「うーん、わかった。一応、訊いてみるね。でも、それいつ?」
「今夜」
「えーっ。急過ぎるよ」
「頼むよ。どうしても駄目だったらいいんだ。お願い」
「しょうがないなぁ」
 あたしは外廊下の柱にもたれて、中庭の楓が枯れ葉を降らすのをみる。そういえば、岡本大智の家はホテルのオーナーで、お金持ちだった。大智はお坊ちゃんなのです。細かいことなんて気にしていなくて、じぶんの欲望に忠実で、後ろに応援団がいないとひとりではなにもできない残念な男。安西裕太と違って、あたしは大智のそういうところを受けつけないのかもしれません。

 午後十九時二十三分、港沿いのリゾートホテル最上階。
 毛足の長い絨毯のうえを歩いていると、こどものころは靴を脱いで真優と一緒に走りまわりたくなったものですが、いまは窓からみえる夜景の方が綺麗で、元旦に泊まった旅館とはまったく似ていないホテル独特の雰囲気にあてられて、おすまし顔で家族の先頭に立つあたしはまるで学校に届いていた学園都市のパンフレットに載っていたツバキちゃんのよう。ツバキちゃんはパンフレットに載っている漫画の主人公で、たぶんどこかのモデル事務所の女の子を撮影して切り貼りしたもので、学園都市の案内をしてくれるのだけど、台詞と表情やポーズが全然あってなくて、どんなに驚いてもおすまし顔。
 南側のいちばん大きな部屋に案内されて、結婚式に着ていくようなタキシードを着た岡本大智に出会う。隣に立つのは大智のお父さん。あたしはおもわず、あっ、と声を出しそうになってしまって、真優を振り返って、真優が首をかしげるのをみて、ふたたび向き直って、あたしの勘違いかと。
 十二月二十五日、午後十六時十七分、タリーズでお母さんと喋っていた男の人は、岡本大智のお父さんです。
「本日はお忙しい中、お越しくださいまして、ありがとうございます」
 大智のお父さんとあたしのお父さんが頭をさげながらご挨拶。語尾をごにょごにょ濁してしまうのは、どちらもおなじ。古い、田舎出身の大人はみんなそんなふうにはっきりしない言葉遣いをするのですが、そうするのが正しいと教えてくれたのはあたしの死んだお祖母ちゃんです。
 あたしたちは楕円のテーブルに案内されて、上座からお父さん、お母さん、あたし、シュン、真優の順番に座ります。あたしは年末に買ったコサージュのついた黒いワンピースにベロア生地のジャケットを羽織って、その上にファーつきのダウンコートを着ていたのだけど、ホテルの中は暖かいのでコートもジャケットも脱いで預けてしまいます。真優はもっとラフな格好。くしゅくしゅな生地とフリルのついたチェックのワンピース。あたしが以前着てたもの。お下がりは妹の運命です。シュンはあたしたちが選んだ服。ショートデニムにニットとシャツを重ね着させて、中綿のコートを羽織っただけ。男の子は楽。
 料理の前に食前酒が運ばれてくる。あたしたちはオレンジジュース。お父さんとお母さんは白ワイン。葡萄の形をしたソムリエバッジをつけた背の高いスタッフがワインの説明をしてくれる。ワインを持ってきてくれるひとは、必ずしもバッジをつけているわけではありません。岡本大智のお父さんはほかの来訪客にご挨拶をしている。ステージでバンド演奏が始まる。ピアノ、ギター、ベース、バイオリン。前菜が運ばれてくると、岡本大智とお父さんがあたしたちのテーブルにつく。
「今日は水上ホテルの就航式だったんですよ。こちらからも見えるのですが、ほらあの船です。ここら近郊を遊覧して港に戻ってくるコースと、関西方面まで航行するコースを用意していて。国内ではのんびり船旅なんてする方あまりいないでしょ。地域によってホテル需要は冷え込んでしまいますから、それならホテルの方からお客様の多い港へ移動してしまえば良いのです」
 岡本大智のお父さんが説明する。窓から見えるのは修学旅行で乗ったフェリーの何倍もある客船で、まだ煌々と灯りがともり、そちらはそちらで何かの催しをしているようです。
「まぁ、素敵な船ね。何人くらい乗れるのかしら」とお母さん。
「五百人ほどの定員ですが、船内はゆったり作られているので、実際はもっと乗れます。客船内部にはラウンジバーや映画館、テニスコートやプールなどのスポーツ施設、図書館、クラブ、開放された観測デッキ、複数のレストランやカフェなど、設備も充実しております。今夜はそちらで市長さんを呼んで祝賀会を開いているのですが、我々はこちらのホテルの六十周年パーティの方が重要でして」
「あー、では奥様は今日は船の方に?」とお父さん。
「そうですね。スタッフも多いので、置物おいておけばなんとかなりますからこういうのは」
「日向を撮りに行ったことがあるのですが、あれも大きな船ですね」
「乗られました?」
「ええ、一泊して、その間に写真を撮って。ドレスコードというのがあって、船はなかなか難しいですね」
「いいですね。実は我々の船、蒼天というのですが、日向とおなじ方が設計しているんですよ。日向よりも近郊の遊覧に適した内装と、おなじみのまったく揺れない設計で……」
 あたしのお父さんと岡本大智のお父さんとで客船談義が始まってしまって、いつの間にか次々にお料理が運ばれてきます。焼きたてのバジルのパンと冷製スープ、海藻のサラダ、別に豪華ではないけれど、むしろ贅沢な内装のこのホテルには釣り合わない地味なコースだけど、フォアグラやキャビアの乗った成金高カロリー肥満コースよりずっとマシ。メインは仔牛の肉のソテー。こちらもバジルの風味が効いたソースがかかっていて、あたしは残しておいたパンを千切ってソースを掬う。こういう場ではあまりおしゃべりできないのだけど、岡本大智が話しかけてくる。
「沙希のお父さん、写真撮るんだ」
「カメラ大好きだよ。あたしもカメラもらったけど、すごいマニアックなカメラなの」
「どんなの?」
「これ」
 足下の鞄から小さな黒いデジカメを取り出す。大智に渡す。
「あ、これ識ってる。俺もこれ欲しいんだよなぁ」
「いいカメラなの?」
「レンズとセンサーはね。それ以外は駄目だけど……、それだけ良ければ写真撮れるし」
「あたし写真よくわからないの」
「後で夜景とか撮る? 屋上で撮ろうよ。ちょっと寒いけど」
 演奏するバンドが替わって、手風琴の音色がきこえてきます。運ばれてきたデザートはアイスの上にベリー系ソースがかかっていて、とても濃い味。あたしと真優は食後のコーヒーを待ちますが、大智は下げてもらって、すぐに席を立ちます。人差し指で上を指してから、待ってるね、と言い残し、部屋を後にします。シュンが椅子を降りて、その後についていく。真優は袖をひく。
「ねぇ、あたしたち今夜泊まるの?」
「泊まるみたいだよ。お父さんとお母さんはダブルの部屋、あたしたちはツイン、シュンもツインじゃないかな? 詳しくはきいていないけど、大智がそう言ってたよ」
「明日学校に間に合うかな。ここから遠いよ」
「車で送ってくれるんだって。いいとこのお嬢様みたいでしょ」

 午後二十時二十一分。
 コーヒーに少しだけ口をつけたけど、あたしはシュンが戻ってこないことが心配になって、真優と一緒に席をたつ。お母さんが、あんまり遠くにいかないで、と釘を刺す。ここは最上階だから、エレベータで屋上にはのぼれない。あたしはコンシェルジュに屋上への階段を教えてもらう。その時間はすでに屋上への階段は扉が閉じられていたのですが、ベージュの制服を着たコンシェルジュが鍵を開けてくれます。あたしたちはお礼を言って、広い階段をのぼっていく。大智は待ってるねと言ったけれど、どうやって屋上にあがったのかしら。
 笑い声。
 真冬の夜空と地上三十階のホテル屋上の寒さを想像していたのですが、屋上はガラス張りの天蓋に覆われて、外気に晒されずに星空と夜景を観察できるようになっています。広い展望スペースの中央に三脚を立てて、岡本大智とシュンが交代でカメラを覗いています。
「難しいね。一分開いただけで、星動いちゃうね」
 シュンの明るい声。大智と一緒に星空を撮影しているようです。あたしと真優は柱の陰にかくれて様子をみます。
「そりゃ、地球が動いてるから、しょうがないんだよ」
「地球の自転にあわせて、カメラ動かせないの?」
「ああ、そういう三脚もあるけど、俺持ってないなぁ。高いんだよモータードライブ」
「あるんだ! すごいね。冗談で言ってみたのに」
 あたしたちといるときよりも、シュンは男の子どうしで楽しそうに喋っていて、嫉妬してしまう。二人は天体望遠鏡に小さなカメラを接続して、ときどき角度を変えながら撮影しています。階下からまた違うバンドの音楽が流れてきて、笑い声がおこる。大人たちはそろそろお酒が入って、良い気分になってくるじかんです。
「大智くんは、沙希お姉ちゃんのことがすきなの?」
「えっ?」
「なんかその、安西くんだっけ、沙希ちゃんがそのひとに振られて、ほんとは嬉しいんじゃないの」
「そんなことあるかよ」
「じゃあ、どうして天体観測に誘ったの?」
「それはさ……」
「告白するんだ」
 大智は黙ってしまう。あたしは真優に目配せして、真優は手のひらを唇にあてて驚いたポーズ。ぜんぜんそんな雰囲気じゃなかった。男の子は女の子にわからないところで、想いを膨らませる生き物のようです。大雑把で強そうにみえるけど、意外と繊細にこういうシチュエーションをセットアップする健気さ。
「大智くんがあの月くらい沙希お姉ちゃんのことすきなら、ぼくは太陽とおなじくらいお姉ちゃんのことがすき」
「あはは……」
「笑うなよっ」
「ごめんごめん。でも俺、シュンが言うとおり沙希のことすきだけど、今夜ここで告白しようとはおもってなかったよ」
「そうなの? どうして? せっかくのチャンスなのに……」
「だって、俺の気持ちなんてきっとまだぜんぜん伝わっていないだろうから、もっと時間をかけないと」
 そう言って、大智は夜空を指さします。あれみて。
「オリオン座の紅い星、ペテルギウスが今年超新星爆発するんだ。そしたら告白する」
「爆発しなかったら?」
「そのときは、そのときさ」
「大智くん、臆病だなぁ」
「ウルセー。おまえは告白しないのかよ」
 シュンは後ろ手を組んでその場でくるくる廻る。どうしよっかなー。
「沙希言ってたぜ。毎年遊びに来る従兄弟がマジウザイって」
「いつ?」
「だいぶ、前だけど……」
「それは、むかしのことでしょ。いま、いろいろ変わったから」
「冬休み終わったのに、帰らなくてもいいのかよ」
 シュンは俯く。黙ってる。大智がうろたえて、シュンの前に跪く。シュンは泣いている。涙がポタポタこぼれるのがここからもみえます。
「ぼくには帰るとこ、ないもん」
 シュンはそう言って、あたしたちの方に走ってくる。あたしたちは柱の陰に隠れたままじっとして、シュンが通り過ぎていくのを待つ。恋のはなしを盗み聞きすることに罪悪は感じませんが、思いがけず、あたしたちが忘れていたシュンの身の上が垣間見え、大智が三脚をたたみ始めるのを待って、そっと腰を浮かして音もなく屋上展望スペースを後にします。
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