R18恋愛官能小説 青山倉庫

金魚博士の些末な日常

第5話「夜の海」


 十二月二十五日、午前十一時十七分、冬休み三日目。
 あたしは部活に入っていないから、冬休みの間に学校へ行くことはありません。今日は、あたしと妹とシュンの三人は、お母さんに駅ビルへお買い物に連れていってもらいました。
 シュンはウチに来てからまだ一度も着替えていません。一着しか服を持ってきていないのです。あたしと真優は、自分たちの服選びを後回しにして、シュンのために冬服を選びます。中綿のハーフコートとコーディのパンツ、デニムのショートパンツ、タートルネック、パンクなシャツとナロータイ、カーディガン、チェックのマフラー。シュンは小さいけれど身体は細いので、その線を隠さないものを選んでいくと、男の子じゃなくて女の子の服の方がよく似合う。いつの間にか真優は両手にシュンの服をたくさん抱えてよろよろしています。自分勝手な姉をもつ妹は、こんなふうに苦労するものです。
「パンツも買っておかないとね、シュン、どんなのがいい?」
「普通のでいいよ……」
「シュン、おっきいから、ゆったりしたのがいい?」
「うん……」
 シュンはうつむいてしまう。
「どうしたの?」
「ぼくの、やっぱりおっきいのかな?」
「気にしてるの?」
「うん…、学校でも苛められたから……」
 シュンは妹とは違う小学校なのですが、昨日、お父さんとお母さんがシュンの転入手続きをするために妹の学校へ行きました。女の子でも胸が早くおおきくなると必要以上に気にしますし、言葉でいじめられたりすることだってあるとおもいます。
「気にしなくていいんだよ。男の子は、ちいさいより、おっきいほうがいいって」
「そうかな…そうなの?」
「そうだよ。シュンは女の子みたいで細いけれど、アソコはたくましくて好きよ」
 シュンはえへへと笑って、つないだ手をぎゅっと握る。あまり笑ったところをみたことがなくて、シュンにもこんなに可愛らしい表情があったことにいままで気づきませんでした。いいえ、あたしが識っているのはもっと邪悪な悪戯っ子の嗤い。シュンのせいで、男はみんなどこか邪な欲望を抱えて、あきらめが悪くて不快ないきものだと刷り込まれました。その不快さは、電車に乗っているときに隣に腰掛けて一人分以上の幅を占領して、小さなあたしの腕の上にじぶんの肘を乗せていい年して携帯ゲームに夢中になっている無駄にデカくて醜悪で皮脂の悪臭を放つ中年男性とおなじ種の、あたしの不快がまったく伝わらないもどかしさであって、かつてのシュンは幼さによってその免罪を得ていたのです。しかしながら、あたしの手を握るシュンには、その時代の傍若無人さは陰を潜め、あるいは完全に失われ、こうしてことあるごとに、このシュンはあたしの識るシュンではないのかもしれないという猜疑を抱かせます。
 あたしたちは、シュンにブリーフとボクサーパンツ、それに女の子用のショーツを買います。ショートパンツには男の子用の下着ではサイズがあわないのです。レジでお会計をするとき、半分以上が女の子の服だと気づきますが、お母さんは気にしません。ほかのことにお金を遣うことをとても厭がるのに、お洋服とか靴とか鞄には出し惜しみしない親です。

 正午を三十三分過ぎて、あたしたちは駅ビル七階のフードコートで和食屋さんの『ふじてん』に入る。
 あたしはあまりお腹がすいていないのですが、山菜そばを注文します。お母さんは天麩羅の盛りそば。真優は親子丼。シュンは海鮮丼を注文しようとしたのですが「いま魚介類はやめといたほうがいいよ」と言って、生姜焼き定食に変えさせます。安全な食べ物なんてないのですが、魚介類は一番危険と学校でも噂になっていて、あたしはお母さんに魚介を食事に出さないようにお願いしています。お母さんもそういうことには神経質なので、卸元で食材を買ったり、お歳暮も魚介を避けています。あたしも真優もお刺身が大好きなので、魚介がこのまま食べられないのは困ります。
「お母さん、シュンは宇田川小に転校するの?」
 あたしは気になっていたことを訊く。
「新学期からね。シュンはしばらく帰れないから、いつまでかわからないけれど、春頃まではこっちで暮すのよ」
「真優とおなじクラスになれるかなぁ」
「さぁ? 先生には、お母さん、お願いしておいたよ」
 あたしは割り箸が綺麗に割れなくて、すこしイライラしながらおそばを啜る。真優は相変わらずお箸の持ち方が下手。シュンはあたしたち姉妹より上品に食べる。嘘。三年前の夏休みのバーベキューで、シュンはひとりでお肉を頬張って喉を詰まらせていたのに。お箸が使えることが奇跡なくらい野蛮人だったのに。あたしの左隣に座って、お椀を置くときにさえコトリとも音を立てない仕草はもはや優美でさえあります。
「なに? 沙希ちゃん…」
 あたしが呆然とみていることに気づいて、シュンは首をかしげる。なんでもないの、独り言のように呟いて、あたしはお母さんをみる。お母さんは知らん顔です。
「真優とおなじクラスになれるといいね」
 あたしは適当なことをいいます。
「おなじクラスになれなかったら、お昼休みに真優ちゃんのクラスに遊びにいっちゃダメかな?」
「いいよ、おいで。一緒に遊ぼう」と真優。
 あたしたちはご飯を食べた後、映画館で映画を観ました。あたしと真優は途中で眠ってしまって、よく覚えていません。映画が終わったとき十六時を四分過ぎた頃で、駅ビルの地下でお総菜や年賀のご挨拶用のお菓子などを買います。ショーケースの和菓子や洋菓子をみてまわるときが一番仕合わせで、それを誰に贈るのか、このお餅は本家のお祖母さん、このミルフィーユは千葉の伯父さん、その生煎餅はあたしたち、と考えているときが二番目に仕合わせで、食べるときはふつうです。
 駅ビルを出る前に、あたしたち三人をミスドに置いてけぼりにして、お母さんは「すぐ帰ってくるから待っててね」と言ってどこかに行ってしまいます。あたしは真優とシュンをその場において、お母さんを尾行して、二階のタリーズで知らない男の人としゃべっているのを見つけます。お母さんはよくそうして、その男の人に会って、何かをもらっています。その人が誰なのか、お母さんに訊く勇気もありませんし、訊いたところで会計士さんとか弁護士さんとか適当な言い訳をするに決まっています。だから、あたしはそこでみたものを真優にはいいません。シュンにもいいません。ミスドの隅っこの席に座って、そういえば昨日もドーナツを食べたっけ、などと関係ないことを思い浮かべます。

 午後六時五十八分、海岸線の古道。
 あたしたちは、お母さんの車で海岸線を通るとき、車を駐めてもらいました。海の家がみたかったからです。
「お姉ちゃん、寒いよ」
 真優が不平を漏らしますが、あたしは構わずシュンの手をひいて砂の上を歩きます。廃墟のような海の家と、冷たい海風。夜の海は恐ろしい音がします。波のぞうぞうという音に混じって、ごろごろと地鳴りのような音が響いていて、ときどき波の白い飛沫が蠢く以外は真っ黒に塗りつぶされた夜の潮。もういちどあんな悲惨な大地震が起きたら、あたしたちはいまの家に住んでいられないかもしれません。
「ねぇ、シュン。シュンは、いつまであたしたちの家に居られるの?」
 二人きりになって、あたしはシュンに訊きます。
「わからない。お父さんもお母さんも、どこかへ連れて行かれたから、ぼくはもう帰れないかもしれない」
「じゃあ、ずっとあたしたちと一緒?」
「沙希ちゃんは、迷惑?」
 月も出ていない暗い夜、青い陰の中でシュンの畏れに充ちた表情が浮かぶ。あたしはシュンの手をぎゅっと握って、
「あたしはシュンとずっと一緒にいても……、ううん、一緒にいたい、一緒に暮そう」
「よかった…」
 海風にあおられて、海の家の廃墟は砕けそうで、外れかけた看板がバタバタと無為な音をたてる。夏の日の海の家は不衛生で大嫌いだけど、冬になると海の家ははじめてその美しさをとりもどし、雨水に溶けた赤錆の筋が幾重にも、隙間だらけの壁板に塗り立てられて、非常な頽廃を匂わせてくれる。生きているものより、死んでいるものがすき、いいえ、生きた痕跡をみているのがすきです。美しいまま首が落ちる牡丹は大嫌い。花は枯れなければいけません。
「お姉ちゃん、寒いよ、戻ろう」
 遅れて歩いてきた真優が訴える。あたしは真優の手を取って、二人の手をひいて、砂の上をサクサクと踏みならし、車へ戻る。
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