R18恋愛官能小説 青山倉庫

金魚博士の些末な日常

第3話「マリンスノー」


 十二月二十四日、土曜日、クリスマスイヴの朝、午前七時くらい。
 寒くて目が覚めました。あたしは昨日出かけたときの格好のままベッドに突っ伏していて、お風呂にも入っていなくて、晩ご飯も食べていなくて、暖房もつけていない部屋で掛け布団いちまい。顔を窓の方へうごかすだけでいっぱい。目覚まし時計が七時二十三分を指している。あたしはこの目覚まし時計を買ったとき、分解して秒針を外しました。秒単位で時間を知ることになると、あたしは秒単位で生活を区切ってしまいます。曖昧でおおざっぱな妹の真優と違って、あたしは細かくて正確で神経質すぎるのですから、生活の中に秒針と巻き尺と秤と計量カップを持ち込んではいけないのです。
 ゆっくり起き上がると、体中が痛い。一晩中、泣き明かして、朝になると、なんであんなに泣いていたのか、お腹の底に溜まっていた汚泥が全部流れ出して空っぽになってしまって、いまここに残っている形骸はあたしの形をしているけれど、ほんとうのあたしは昨日の涙と一緒に流れ出てしまってもうなにも残っていないような気がします。
「お姉ちゃん」
 ドアをノックする音と、真優の声。昨夜からシュンが泊まっているのに、真優はあたしの部屋に来ませんでした。真優はシュンと同い年、来年五年生ですが、あたしよりずっと大人で、いつもあたしに気を遣ってくれて、あたしのことが大好きで、なにをしても怒らない一途なあたしの妹。シュンと一緒に寝ていたら、あたしはシュンを許さない。
「お姉ちゃん、大丈夫? ご飯は?」
 真優が部屋にはいってくる。後ろにシュンがいる。やっぱりあたしの記憶のシュンと違う。何があったのだろう。怒られてもぶたれてもズカズカと人の部屋に侵入して、漫画を読み散らかしてゲーム機を引っ張り出して座卓をひっくり返してジュースをこぼして笑って済まそうとする小さな暴君の姿はどこにもなくて、大人びた眼差しを身につけて、あたしを畏れている。
「食べる」
 ひとこと答えて、あたしは起きあがる。部屋を出る。シュンを無視する。階段をおりて、キッチンへ。お母さんが昨日のお雑煮を暖めている。お父さんはいつも朝が遅いから、姿が見えない。
「沙希はお餅いくつにする?」
「ふたつ」
「じゃあ冷凍庫から出して、チンして」
 あたしは冷凍庫からラップされたお餅をふたつ取り出して、レンジで一分半。暖めてる間も膨らまないように監視します。すこしでも膨らんだら、中止ボタンを押して、お餅を取り出し、ぐつぐつ茹だったお雑煮に落とします。
「沙希ちゃん、買ってきた最中があるよ」
 いつの間にか近づいてきたシュンがあたしに声をかける。
「いらない」
「沙希ちゃん、昨日、泣いてた」
 あたしはシュンを無視して椅子に座る。真優が居間でテレビのリモコンを探しています。
「なにか厭なことがあったの?」
 俺、誰ともつきあう気ないんだ。昨日のことを一斉に思い出してしまいました。今日はクリスマスイヴ。きっと、人生で最悪のクリスマスイヴ。昨日、シュンがウチに来てから、何もかも歯車が狂ってしまった。あたしに降りかかった災いの元は、きっとこいつ。
「あんたのせいよ!」
 あたしは振り返りざま、シュンの頬をぶつ。癖毛だったはずのシュンの髪の毛はサラサラしていて、あたしにぶたれてパッと拡がるつやつやして柔らかい髪の毛は真優の髪の毛に似ていて、あたしは一瞬間違って真優をぶってしまったのかと冷や汗をかく。
「沙希! なんで叩くの!」
 お母さんが怒鳴る。シュンは頬をおさえて泣き顔であたしをみつめる。ひどい八つ当たり。真優が駆け寄って、いつもあたしをお母さんから庇ってくれる真優が、今日はシュンを庇います。
「非道いよお姉ちゃん。シュンはお姉ちゃんのこと大好きなのに」
「厭、厭、知らない」
 あたしは立ち上がって、廊下に逃げ出す。玄関で靴をつっかけて、飛び出す。寒い。上着を忘れた。マフラーだけ。石段を駆け下りて、ガレージから道路に出る。走る。全速力で走る。息があがるけど、身体は温まる。吐く息がしろい。クリスマスイヴに朝からお母さんに怒られて、信じていた妹に裏切られて、平和だった家族に小さな異物が紛れ込んで、こんな不幸な中学生はすくなくともこの町ではあたしひとり。もう走れない。歩く。空をみる。鉛色のそらと朝の凍った空気はわずかに雪のにおいがする。
 駅前のミスドを通り過ぎる。しってる子は店内にいない。踵を返してお店に入る。トレーとトングを取って、チョコファッションをふたつ。レジで、コーヒーを注文する。お財布には、あと三千四百七十一円入っている。五百二十四円支払って、残りは二千九百四十七円だから、電車に飛び乗ればわりとどこにでもいける。レジから席につくまでの距離、あたしは残金でどこまで遠くへ行けるか考えてみたのですが、都内を計算に入れると選択肢が多すぎて混乱します。
 窓際に座っているおじさんがあたしをチラチラみている。昨日の格好のままだけど、汚い格好じゃない。そうやってあたしと視線があう人が、あたしをみてなにを想っているのか、まだあたしにはわからない。おじさんや、おばさんや、おにいさんや、おねえさんや、こどもや、散歩中の犬までも、あたしをじっとみていることがあります。あたしのしらないところで、なにか重大な実験が行われていて、あたしはその監視対象に違いありません。現国の授業中に居眠りしているところや、お風呂につかって両脚をあげたままぶくぶくと頭から沈んで数を数えているところとか、そのお風呂に妹と一緒に入って乳首とかアソコとか敏感なところをつつきあっているところとか、家に誰もいないときに音楽を聴きながら歌っているところとか、夜ひとりでいるときにスマホでエッチな小説を読んでいるところとか、その後で指先をショーツのうえからアソコの割れ目に沿って動かしているところとか、そういうのも全部だれかに見られて記録されていたら、恥ずかしくて死んでしまいます。
 両手で顔を覆う。また涙がでそう。ゆらゆら湯気のたつコーヒーの表面に映るちらちらした光は、顔をあげると雪が舞っていて、人気のない北口ロータリーに青い窓ガラスのフィルターがかかって、去年家族で行った水族館の深海コーナーで深海調査船からみえるマリンスノーの映像とそっくり。あまりの曇天に駅のホームの照明がまぶしい。そこに、クラスメートの松村奈々が通りかかる。手を振って、お店に駆け込んでくる。
「沙希、どうしたの?」
「奈々こそなにしてるの? こんな朝早くから」
「あたし、今日は支援施設のクリスマス会にお手伝いにいくの。お母さんがお小遣いくれるって」
「へえー、大変だね」
「大智にきいたよ。沙希、裕太に告ったんだね」
「うん…」
「あっ、言っちゃいけなかった?」
「いいよ、もう振られたし」
「振られたの? えっ、マジ、なんで?」
「誰ともつきあう気ないって」
「はあー? なにそれ」
「束縛されるのが厭みたい」
「えーっ、子供みたい」
 松村奈々はあたしのクラスメートの中で一番の親友で、ノリが一番あうし、笑いのツボもおなじ。一緒に居て楽なお友達です。小学校は別だったけれど、中学で出会ってからお互いの家に遊びに行く間柄になって、恋の話もいっぱいして、あたしが裕太に片想いってことも知っていたのですが、告白することは内緒にしていました。
「沙希もなんで裕太なの? あたしには凡庸にみえる」
「ボンヨー?」
「土橋とかじゃだめなの?」
「だから土橋くんは見た目だけでしょ」
「意外とあいつ中身も誠実だし、彼女とかいないみたいだし」
「かっこよすぎて親近感ないなぁ」
「沙希ぜいたくだよ」
「奈々がつきあえばいいじゃん、土橋と」
「土橋くんちのお父さんとウチのお父さんが釣り仲間だから、昔から家族でつきあいあるんだよね」
「そうだったね。土橋くん、お父さんがフランス人だっけ?」
「ちがうよ、お母さんがウクライナのひとだってきいたよ。日本語上手なの」
 窓の外の雪はますます増えて、地面におちたサラサラの光が風に巻かれて渦をつくる。雪の粒は大きさと比重によって落ちる速度がちがうのですが、極めて正確な物理演算によって、重力と風と温度変化と雪どうしの干渉にミクロン単位の誤差もなくはらはらと降り注ぎ、非常な複雑さにあたしは眩暈を覚えます。
「裕太なんかより、沙希のことを好きでいてくれる男の子に振り向いてあげた方がよくない? 別に土橋とかじゃなくてもいいから」
「誰それ?」
「沙希、鈍感すぎ」
「えーなにそれ、だれそれ?」
「あたし八時までに行かないといけないから、そろそろ行くね」
「ちょっと、奈々」
 奈々はバイバイと手を振って、お店を出て行く。
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