R18恋愛官能小説 青山倉庫

トッカータ

第4話「微熱」


 白黒の退屈な映画をぼんやり眺めながら、あたしは隣のアヤの手を握る。
「アヤ…、寝ちゃった?」
 目を閉じたままのアヤを覗き込む。額に汗が浮かんで、あたしが揺さぶると眉間にシワをよせる。
「具合悪いの?」
「きもちわるい…」
「大丈夫? 出よう」
「いいよ、映画まだ終わってないよ」
「映画なんてもういいよ。アヤ…」
 あたしはアヤに肩を貸して立ち上がる。ガラガラの映画館はあたしたちの他には、前の方でいちゃついてるカップルと、スーツを着たお昼休みの営業さんが寝ているだけ。アヤを抱えて映画館を出る。階段を下りる。渡り廊下を渡って、パルコ三階の喫茶店に入る。奥の席に座る。アヤは汗びっしょりで、薄いTシャツが胸に張り付く。アイスティーを二つ注文する。

 その日、あたしとアヤは、久しぶりに一緒に遊びに出かけた。
 あたしは優くんとプールに忍び込んだ日以来、ときどきアヤに内緒で優くんと逢っていた。あたしの目的は優くんではないし、優くんに対してそれほど特別な感情はなかったのに、優くんに抱かれているときは自分が普通の女の子だと錯覚することができる。だけど、優くんとエッチした回数だけ、心の底にわるいものが澱のように蓄積する。だからあたしは仲良しのアヤと久しぶりに会うのに、とても緊張していて、アヤと目を合わせられなかった。
 アヤはいつもより元気がなくて、少し風邪気味だと言っていたから、喫茶店でアヤを扇ぎながら、無理に退屈な映画に誘ったことを後悔した。

 カラン。
 アイスティーの溶けた氷が透明な音を立てる。空は鈍色に染まり、今にも雨が降りそうで、蒸し暑い。団扇で扇ぐ空気も肌に絡みつく。アヤが薄く目を開く。
「麗羅ちゃん、映画は?」
「途中で出たよ。アヤ、大丈夫? 汗びっしょり」
「うん…、風邪みたい。なんか寒い」
「どうしよう。タクシー拾って帰る?」
「ううん、少し休めばよくなるよ」
 あたしはハンカチでアヤのこめかみを流れる汗を拭き取る。オープンテラスに陣取ったOLの団体が大声で笑う。隣の席に座った男の人はさっきからずっと携帯をいじっていて、休日のお昼時なのにお客さんが少なくて、店員さんは退屈そうにテーブルを拭いて回る。
「あたし、前もこうなったの」とアヤが言う。
「前って?」
「お兄ちゃんが、他の子と寝たとき」

 友達の多い妹と違って、あたしはいつもひとりぼっちだった。
 大企業で働いていたお父さんが独立して、舞洲総研という小さな会社を興したのはあたしが小学校に入る頃で、それから六年の間に会社はどんどん大きくなって、本社や工場は何度も移転と拡大を繰り返した。それは大人にとっては喜ばしいことかもしれないけど、子供のあたしや妹にとって、繰り返される転校は大きな負担になっていた。
 妹は新しい環境に順応する術をみつけて、新しい学校でもすぐに友達を作ってしまう。あたしもみんなと仲良くするように努力してるけど、気がついたらお昼休みにひとりぼっちで校庭を眺めている。あたしはだんだん一人でいることが楽になってきて、元々内向的だった性格のお陰で孤独を苦痛とは思わなくなっていた。
 だけど、群れからはぐれた羊は容易にスケープゴートにされる。クラスで人気があった男子、東谷くんだったか宗谷くんだったか名前は忘れちゃったけど、かっこいい子に誘われて一度だけ渋谷の子供の森に遊びに行ったことがある。それを誰かに嫉妬されたんだとおもうけど、あたしが援交してるという噂が立った。その噂はすぐに担任の先生の耳に入って、職員室に呼び出された。だけど、あたしには心当たりもないし、噂だけで証拠もない。内気なあたしにあまり目をかけていない先生はすぐに解放してくれたけど、みんなが帰宅した後の教室に戻ると、あたしの持ち物が家捜しされて、ランドセルの中にはゴミと一緒に避妊具が入れられていて、黒板には『舞洲さんお別れ会』と題してクラスの子たちが議論した痕跡があった。
 六年生だったあたしは卒業式が近いのに、不登校に陥った。心配した両親はあたしの卒業と同時に横浜の別宅に引っ越したけど、妹は本宅に残っていたから、両親は都内と横浜を往復する生活を強いられた。申し訳なく感じていたけど、それ以上にあたしは自己嫌悪に陥っていたから、新しい中学でもきっと馴染めないと心の奥で諦めていた。
 入学式から一週間が過ぎて、相変わらず窓の外をひとりぼっちで眺めていたあたしに声をかけてくれたのが彩奈だった。初めてできた友達だったから、あたしはいつもアヤと一緒にいて、色んなことを喋って、いつしか自分の過去も話すことができた。そしてあたしは偶然アヤの秘密を知ってしまった。
 あたしはいつか自分の秘密もアヤに打ち明けなければいけないけど、そのためにたった一人の友達を失うのが怖い。臆病で意志薄弱なあたしは、アヤに何も伝えないままに、一番ヒドイ裏切りを働いてしまって、たった一人の友達を失いかけている。

 あたしが黙って俯いていると、アヤはもう一度言う。
「お兄ちゃんが、他の子と寝たとき、あたし、こうなるみたい」
 隣の席で携帯をいじっていた男の人が席を立つ。親子連れが入店する。いらっしゃいませ。ありがとうございます。アヤはあたしを見ている。あたしはアヤの短パンのベルトがキラキラ光っているのを見つめる。
「あたし、お兄ちゃんの彼女にはなれないから」
「ごめんなさい…」
「あたし、誰も責められない。悪いのはあたしだもん」
「ごめ…」
 あたしは俯いたまま涙をぽろぽろ零して、アヤの太股に滴るのを見つめて、声を震わせる。アヤが溜息をつく。何か言わなきゃいけないのに、何をどう言っても今は言い訳にしかならない気がして、あたしは肩を竦めて嗚咽する。アヤが何か言ってくれるのを待っている。だけど、アヤは沈黙を守る。あたしは濡れたアヤの太股をハンカチで拭う。アヤは立ち上がる。
「あたし、帰る」
 あたしも立ち上がろうとするけど、アヤは伝票を掴んであたしを制止する。
「一人で帰りたいの」
「アヤ…、あたし」
「大丈夫だから」
 アヤはあたしの分も払って店を出る。あたしは座ったままアヤの後ろ姿を見送る。
 ぬるくなったアイスティーのグラスが汗をいっぱいかいている。オープンテラスのOLさんたちが慌てて店内に駆け込んでくる。雨が降り始める。あたしは長い間、テーブルの上の濡れた紙ナプキンをぼんやり眺める。ときどき店員さんがあたしを振り返る。アヤの風邪がうつったみたい。微熱を帯びた自分の頬を指先で撫でる。
 あたしは人目をはばからずに大声で泣きたいけど、もう声も出ない。
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