R18恋愛官能小説 青山倉庫

鳴沢文芸部

第1話「逃避」


 チャイムを鳴らして出てきたのは、祖父だった。
「どうした? 聖、学校は休みか?」
「休みじゃないけど…」
「まあ、あがれ」
 ぼくは玄関で靴を脱ぎ、お座敷にいく。祖母は三年前に他界していた。仏壇の前に神妙に正座して、お線香をあげる。抹香の香りがふわりふわり。手をあわせる。おばあちゃん、ぼくは、ひとりぼっちでいることがすきです。
 立ち上がって居間へ。祖父がお茶とお菓子を用意してくれる。ぼくは制服のまま、祖父の家にやってきた。学校の鞄には、ペットボトルと、何枚かの着替えが入っている。
「しばらく、泊まるか?」
 祖父がきく。祖父は煙草に火をつける。煙草の値段が上がったせいで、祖父はさいきん紙巻き煙草をじぶんで巻いて吸っている。
「うん、しばらく、ここにいたい」
「そうか。じいちゃんは、畑に行ってくる。すきなだけ、泊まってええ」
 祖父は麦わら帽子を被って、畑へ出かけていく。ぼくもその後を追う。制服の上着を脱いで、裾をまくって脛を出す。畑仕事を手伝う。祖父の畑は庭だけでなく、道路を挟んで向こう側の斜面を下った先にも拡がっている。毎年、春には茄子の苗を、夏にはたくさんのキュウリとかトマトとか、秋になると漬け物を、冬が近づくと巨大な冬瓜を送ってくれる。キャベツ畑にモンシロチョウが飛んでいる。小さい頃、姉と二人で祖父の家に遊びに来て、虫取り編みでかごいっぱいにモンシロチョウを捕まえて、ぼくが蝶の羽根を綺麗に千切って並べたりするから、姉はモンシロチョウが大嫌いになった。
「聖、家は大丈夫か? 停電は?」
「今年は計画停電ないんだって」
「揺れたか?」
「ぼくは中学校の卒業式の最中だったから、たいしたことなかったよ。周りはみんな大騒ぎしてたけど」
「そうか、聖ももう高校生だもんな」
「お姉ちゃんは結婚したけど」
「芳美姉ちゃんは、向こうの家に行ったのか?」
「いや、二人で住んでるんじゃないかな? 夏休み前に写真送ってくれるって」
 祖父は黙って草をむしる。鉢植えを移動する。

 もうギリギリだよ、描けなくなっちゃうよ。
 最後に和智天音と携帯で話したとき、ぼくは原稿は仕上がったから郵送するよ、とこたえた。あとは、なにを話したか覚えていない。
 ぼくは携帯の電源を切って、居間でごろごろしながら借りた本を読む。祖父が新聞をひろげている。晩ご飯に冷やし中華を食べて、お風呂に入った。着替えを持ってきていたけど、祖父が浴衣を貸してくれた。ぼくの家は蒸し暑いけれど、祖父の家は風通しがよくて涼しい。
 電話が鳴る。祖父が出る。話す。振り向いて、受話器を差し出す。
「聖、お母さん」
 ぼくは受話器を受け取る。もしもし。
「聖? なにやってるの、馬鹿じゃないの? あなた学校は?」
「今日は行ったよ」
「明日はどうするの?」
「休む」
「なに言ってるの。馬鹿なこと言ってないで、早く帰ってきなさい」
「もう電車ないよ」
「お母さん、いまから迎えにいくから」
「いいよ来なくて」
「なによそれ」
「しばらく帰らない」
「なに考えてるの? お母さん明日も早いんだから、ぐずぐず言わないで」
「いいよもう」
 ぼくは一方的に電話を切る。すぐにまたかかってくる。祖父が出る。
「なにか悩みがあるんだろ…。お前が話を聞かないから、こっちにきてるんじゃないか。おまえ、お前は一度くらい聖ときちんと話をしたのか? ああ? なにを言うとるんじゃ、子供にこんだけ苦労かけといて、明日の朝ンこと心配しとるバヤイか。ええわ、迎えになんぞ来んで」
 祖父が電話を切る。
 ぼくと祖父は沈黙する。壁掛け時計の音だけが聞こえる。祖父の家にはテレビがない。すきな野球はラジオで聴いている。死んだ祖母は寝たきりになる前から呆けてしまって、ぼくやお姉ちゃんの顔がわからなくなった。だけどラジオで祖父といっしょに野球中継を聴いているときだけは元気になって、もう引退した選手の登板を期待するのだ。
 夜、十一時になると、祖父は寝床へ。聖、まだ起きてるか、ときく。
「もう寝るよ。おやすみ」
 そう言って、ぼくは母屋を出て、離れの別邸にいく。ぼくは子供のころから本宅で眠らない。夏になると、裏手の森で蝉が鳴く声が煩い。水のせせらぎや、風で木々がたわむ音さえ喧しい。自然の音は、人を、癒さない。別邸は涼しくて、田んぼへの道の途中にあるから、とても静か。
 夏休みにここへ遊びに来たときは、この別邸で、お姉ちゃんと二人で眠った。
 ちいさい頃からお姉ちゃんの方がちやほやされていて、祖母からは別嬪さんじゃねえ、と可愛がられていて、ぼくはお姉ちゃんにくっついてまわることで、じぶんが世の中から忘れられないようにつとめてきたのだけれど、その姉も結婚して、ぼくは完全に置き去りになった。明日、ぼくが登校しなくても、誰も気づかないかもしれない。和智天音と波多野実留衣は気づくかもしれないけど、それほど心配はしないだろう。母親だって自分の仕事のことで精一杯なのだから、ぼくにかまけてくれるひとなんていないし、みてくれるひとがいると期待するのは自惚れでしかないとおもいます。
 鳴沢高校に入学して、ほんの数ヶ月の間にいろいろなことがあって、元々脆くて繊細だったぼくの心はすっかり渇いて、その諸々から逃げ出すために家を飛び出した。まだ十六歳にもなっていないぼくにとって、外の世界は未知の世界であり、自然と祖父の家に足が向いた。時間が欲しかったのです。いままでに起きたこと、じぶんがしたこと、されたこと、ささいなことの積み重ねと、ぼくの勘違いや自惚れと、そういうものが木っ端微塵に四散したときのことを思い出して、いや、実はたいしたことはない、とじぶんを元気づけられるか、あるいはもっと深い縁に沈み込んでしまうのか、どちらにせよもやもやしたものに白黒つけたいと欲しているのです。
<< 前のページ 戻る