R18恋愛官能小説 青山倉庫

絶頂ラジアン

第18話「おおきなジケン」

 パチリと眼をひらく。
「恵未」
 ぼくが声をかけても、しばらく周囲をキョロキョロ眺めて、反応がない。ぼくを見つけて、微笑む。
「お兄ちゃん」
「恵未、具合はどう?」
「ふわふわする。ここ、病院?」
「そうだよ」
「お母さんは?」
「いま、お医者さんのところへ行ってるよ。説明を聞きに」
 真っ白な病室には寝台がふたつあって、ドア側のひとつは空いたばかり。昨夜、ぼくが訪れたとき、隣のひとが退院するところだった。ぼくと早苗さんは、恵未のそばに一晩中付き添って、ぼくは今日、学校を休んだ。お昼を過ぎていたけど、ぼくはまだ何も食べていない。恵未だって、なにも食べていない。
「あたし、どうして病院にいるの?」
「覚えていないの?」
「うん、昨日は、あたし出かけるところまでしか、思い出せない」
 昨夜連絡をくれたのは、大内刑事だった。恵未は松下家の地下室に監禁されて、朋子さんが救命措置をしているところへ、警察のひとたちが踏み込んだ。朋子さんは、恵未が煙を吸って呼吸困難になったから家に連れてきたと説明していたらしい。だけど大内さんの厳しい取り調べで、朋子さんは白状した。恵未を絞殺しようとしたけれど、心肺停止になった恵未を前にして恐ろしくなって、元看護師の朋子さんは恵未に救命措置を施し、恵未は一命を取り留めた。
 昨夜、病院で会った芝山さんが、松下さんのことを教えてくれた。朋子さんは逮捕されて、ご主人の誠二さんは指名手配されて、ゆきえとゆきえの姉のともえはまだ警察署にいる。ゆきえは事件と関わりがないのに、いっぺんに両親を失った。ゆきえにはお姉さんがいるから、すくなくともひとりぼっちじゃない。
「恵未は、大きな事件に巻き込まれて、死にそうになったんだ。大内さんが助けてくれたんだよ」
「おおきなジケンって?」
「ぼくもまだよく知らないんだ」
「ふうん……」
 ぼくは何を伝えたらいいかわからなくて、恵未がショックを受けるような言葉を避ける。首にコルセットをつけて、顔が少しむくんでいる。病室の引き戸が開いて、早苗さんがお医者さんと一緒に入ってくる。早苗さんはベッドの傍らに腰掛ける。
「恵未」
 声をかけて、軽く頭を撫でる。恵未が微笑む。ぼくには見せない表情。こどもの表情。
 お医者さんは検温をする。手足を触診、撫でたり、つねったり、叩いたりして、恵未の反応をみる。問診。痺れるところはありませんか、痛いところはありませんか、首はどうですか、お腹すきましたか、そうですか。ぼくは窓の外を眺める。変わらない町の風景。雨はあがったけれど、まだ空は曇っていて、すこし肌寒い。お医者さんは恵未に、明日には退院できますからね、と言って病室を出る。入れ違いに、看護師さんが昼食を銀色のワゴンにのせて運んでくる。桃色の制服を着た看護師さんは、早苗さんとぼくに、こんにちは、と挨拶をする。早苗さんがぼくの袖をひく。
「トモくんもご飯食べておいで。あたし、居るから」
「でも……」
「通りのお向かいに、天ぷら屋さんがあるよ」
 ぼくは頷いて、病室を出る。エレベータで一階の受付まで下りる。老人たちが所狭しと群れをなす。蛍ヶ浦は年老いた町だ。子供の姿はすくなく、そしてそのわずかな若さで肥大化する老いを支えなければならない倦怠。バブル期は美しいニュータウンだった蛍ヶ浦は時代に取り残されて、かすかな死臭が蔓延しています。それが、都会でも田舎でもない町の特徴。
「オウ! オカ研!」
 病院の入り口で声をかけられる。振り向くと、くわえ煙草の大内さん。
「ぼくオカルト研究会のメンバーじゃないですよ」
「なにしてンのこんなとこで?」
「妹の付き添いです。その節はありがとうございました」
 ぼくは深々と頭を下げる。紺色のカーディガンを来た看護師さんが走ってきて、お煙草はご遠慮くださいと大内さんに言う。大内さんは看護師さんを、完全に、無視する、
「あーそうだったな。これから退院?」
「いえ、ぼくはお昼を食べに」
「おっ、じゃあ一緒にいくか。そこで天麩羅喰おう」
「奢りですか?」
「大の大人が小僧に割り勘させるかよ」
 ぼくたちは横断歩道を渡って、和食屋に入る。お昼時で混んでいて、ぼくたちはカウンター席に。大内さんは天麩羅定食を、ぼくは天丼を注文する。大内さんは新しい煙草に火をつける。
「大内さんは、なにしに病院に来たのですか?」
「白井婆が目覚めたって言うから、話を聞きに来た。仕事だよ」
「新浜さんのお爺さんは、見つかったのですか?」
「いいや」
「松下さんのお父さんは、見つかったのですか?」
「いいや」
「見つかれば、ゆきえちゃんは戻ってこれるんですか?」
「それはねーな」
「どうしてですか? ゆきえちゃんのお母さんが逮捕されたのはわかるんですけど、お父さんまで指名手配されるなんて……」
「櫻井くん、前よりペラペラ喋るようになったじゃねーか」
「あ、はぁ……」
「松下誠二は、事件の中心なんだよ」
「事件って、なんなんですか?」
「櫻井くんは、年金って知ってる?」
「知ってます。最近よく問題になってるみたいだから」
「蛍ヶ浦のは、とびきり強烈なんだよ」
 大内さんはそれ以上喋らない。ぼくは肩を竦める。定食と天丼が運ばれてくる。ぼくはお手ふきで手を拭いて、大内さんはお手ふきで顔を拭いて、割り箸を割る。いただきますをする。病院から救急車が出て行くのが見える。店内はほぼ満席で、入り口の待合椅子に座っているひともいる。
「これから何人か送検されたり、逮捕されたり、ややこしくなるから、櫻井くんも気をつけな」
「どう気をつけるんですか?」
「ハッパなんかに手を出すんじゃねえぞ」
「ハッパってなんですか?」
「お前、チレンって知ってるか?」
「いえ、知りません」
 大内さんは店員さんを呼び止める。おーい、おばちゃん、ピール、ビール一本、おばちゃん、ちょっとおねーさん。大内さんは声が大きくて注目を浴びる。ぼくのお父さんも声がよく通って、注目を浴びやすいタイプだった。
「他のことはともかくさ、これだけはワイドショーにも新聞にも週刊誌にも出ないんだけどよ、チレンって奴がこの町にいた」
「それ、人の名前なんですね」
「指名手配されてんだ、超凶悪犯」
「なにかしたんですか?」
「誰にも言わないって、誓えるか?」
「はい、誓います」
 大内さんはぼくに顔を近づけて、囁く。
「教えてやらねー」
 大内さんはケラケラ嗤う。ぼくは、ひどーい、と言ってお手ふきをなげつける。
 店の外では、また雨が降り始める。交差点の信号が変わる。郵便局の収集車が停まる。ぼくは店の窓を流れる雨水の筋をみている。雨に濡れたオレンジの灯りがポツポツと花ひらいて、その向こう側の歩道に立つ少女が通りに手を振っている。

 翌日も雨が止まない。
 ぼくは遅れて登校した。教室には、結愛とその取り巻きが何人か見あたらない。どのクラスも、なんだかざわついている。休み時間になって、崇の席にいく。崇はつぐみと何か話し込んでいる。
「崇、結愛が…」
「智之、なんで休んでたの?」
「妹が事故にあって…」
「まじで、大丈夫なん?」
「うん、すこし首を痛めただけ」
「そうそう、結愛と達也がつかまったぜ」
「えっ?」
「大麻所持だって、他にも何人か補導されたらしいって」
「ほんとに?」
「大麻だけじゃなくてさ、他にもいろいろマズイ事態になってるってさ。キフ会って知ってる?」
「貴婦会って、松下さんとこのボランティアでしょ」
「そうそう松下、なんか大麻栽培に関わってたらしいよ。松下夫妻、逮捕されたじゃん」
「あれ? 夫もつかまったの?」
「旦那さんはまだ捕まってないよ」とつぐみが言う。
 ぼくはつぐみの脇にしゃがみこんで、囁く。結愛ってやっぱりクサやってたんだ。つぐみは人差し指を唇にあてる。崇が言う。
「俺の前でいちゃつくんじゃねーよ」
「別にいちゃついてないよ」とつぐみ。
「お前らヤリまくってンだろ」
「それは結愛が勝手にそう言ってるだけだもん」
「あれ、智之も言ってたぜ」
 つぐみは頬を膨らませて崇を睨む。ぼくを睨む。ぼくはつぐみの手を握って、囁く。
「もう、バレたっていいじゃん。みんなには、言わせておけばいいよ」
「ええっ」
「今日も、放課後、愛しあおうね」
 つぐみは真っ赤になってうつむく。頭をなでなでする。つぐみの嘘にはいくらでもつきあえるけど、つぐみを抱きたいとはおもわない。つぐみの愛は、きっと、たぶん、重い。
「だから、俺の前で愛を囁き合うなっつーの」
 先生が教室に入ってくる。ぼくたちは席に着く。
 その日は、放課後までなにもなかった。担任の柴田先生はなにも言わないし、廊下ですれ違った七隈先生は微笑んだだけで、言葉を交わすこともない。ぼくはつぐみと一緒に帰る。携帯にメールが一通。加藤奈々から。恵未のお見舞いに行きたいと書いてある。今日、退院だよと返信する。すぐにメールが返ってくる。明日、遊びに行きたい。ぼくは、いいよ、と返信する。携帯の送信画面をみながらスロープを下って、校門の前で顔をあげると、二人の少女が立っている。ゆきえと、ゆきえのお姉さん。
「こんにちは」
 ぼくは挨拶する。高校の制服を着たゆきえのお姉さんが、頭をさげる。ランドセルを背負ったゆきえは泣いている。つぐみがぼくを見つめる。ぼくは、恵未の友達だよ、と紹介する。
「妹がお世話になったので、最後にご挨拶を」
 ゆきえのお姉さんが言う。
「最後って…」
「あたしたち、千葉の親戚に引き取られることになったんです」
「えっ、じゃあ、恵未には」
「連れて行ったんですけど、会えないって、すごく泣くので……」
「そうですか…。恵未もきっと、淋しがるとおもいます」
「お兄さんから、よろしくお伝えください」
 そう言って、再びお辞儀する。ゆきえのお姉さんは、ゆきえの手を曳いて、通りの向かいに停まる車に乗る。後部座席のドアがしまる。窓のむこうで、ゆきえが手を振る。ぼくも手を振る。ゆきえはまだ泣いている。ぼくは下唇を噛む。こんなにアッサリ別れるなんて想像もしなかったから、ぼくはどうしていいかわからない。ひとこと、なにか言葉を。
「ゆきえちゃん!」
 ぼくが声をあげると、車は走り去ってしまう。
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