R18恋愛官能小説 青山倉庫

絶頂ラジアン

第8話「誘惑」

 夏休みが終わった。
 体育館の硬い床に体育座りしたまま、ぼくらは教頭先生の話を聞き流す。教頭先生は、受験の始まった三年生向けの話しかしないし、他の受け持ちのある先生たちと違って具体性のあるエピソードはなにもなく、形而上の物語ばかりで退屈する。そうやって、学校の偉い人たちはプライベートを隠蔽して、生徒との間に越えることのできない壁をつくって自己防衛する。生徒の注意を惹かないストーリーだけを垂れ流して、学生の矜恃を説いて、ぼくたちとの著しい乖離を巧みに隠匿することで、その地位を守ってきた。
 教頭先生の話が終わると、部活の表彰式、生徒会長の挨拶、学年主任から全体行事の説明。九月に入っても酷暑が続くなか、空調の効いていない体育館は気持ち悪いくらい暑い。新任教師の挨拶にはいるまえに、ぼくの斜め前のつぐみが床に寝そべってしまう。隣の凛子がつぐみを揺さぶる。そういえば、今週の保健委員はぼくとつぐみだ。当の保健委員に倒れられると困る。
「つぐみ、具合悪いの?」ときく。
 つぐみは汗びっしょりでうずくまったまま、ちいさく頷く。倒れたつぐみに周囲の生徒が気づく。先生が歩いてくる。ぼくはつぐみを抱き起こして、肩を貸して歩く。柴田先生が駆けてくる。
「赤西、大丈夫か?」
「保健室に連れて行きます」
 ぼくは生徒たちの間を、つぐみを介添して歩く。何人かの先生が二階のギャラリに走って、窓を開ける。体育館内は異様な暑さ。保険医の七隈先生が走ってくる。一学期は長かった髪を短く切った七隈先生は、今日は白衣を着ていない。
 三人で体育館を出る。外も暑くて、ちっとも風が動かない。校舎に入る。廊下を歩く。保健室の引き戸を七隈先生が開けてくれる。ぼくはつぐみをベッドへ運ぶ。寝かせる。汗びっしょり。保健室はエアコンがきいていて涼しい。七隈先生が保冷剤をタオルで巻いてくれる。つぐみの額にあてる。
「赤西さん、大丈夫?」
 七隈先生が覗き込む。スツールに腰掛けたぼくの隣、しゃがんだ七隈先生のシャツの隙間からみえる胸の谷間をチラ見する。先生は薄紫色のブラをつけている。縁の朱い眼鏡をかけている。良い匂いがする。おとなのおんなの匂い。
「大丈夫です、すこし横になっていていいですか?」
「しばらく寝てる? 今日は授業ないから、もう帰ってもいいのよ」
「すこし、おちついてから…」
「そか。先生、一度戻るけど、もうすぐ始業式終わるから、終わったらまた戻ってくるね。櫻井くん、よろしくね」
 そう言って先生は保健室を出る。静かになる。つぐみが手を伸ばす。ぼくのシャツを引っ張る。
「トモくん、ベッドの上に座って」
「ここでいいよ」
「座って」
 つぐみがシャツを強く引っ張る。ぼくは腰を浮かして、ベッドの縁にそっと腰掛ける。パイプベッドが軋む。白い衝立に、ぼくの影が落ちる。保健室の匂いは、病院と違って、やわらかい。
「昨日は、どうしてメールの返事をくれなかったの?」
 つぐみが訊く。ぼくは、首を傾げる。
「夜はご飯の支度があったから…」
「じぶんでつくってるの?」
「お弁当はね、じぶんでつくるよ」
「偉いね……」
 つぐみは、登校日にあの話をして以来、メールをやりとりするようになった。ときどき電話がかかってきて、長時間話していた。ぼくたちのやりとりは中身があるものではなく、今日はなにを食べたとか、どこに遊びに行ったとか、宿題が終わらないとか、携帯の通話料が高くてお母さんに怒られたとか、結愛がどうした、崇がこうした、達也がああだこうだ、といった、他愛のないものばかりで、あの話の続きはしていなかった。だけど、夏休みの最終日、とうとうつぐみから切り出した。
 もういちど、セックスしよう。
 ぼくはそのメールの返信に窮しているうちに、恵未と愛しあい始めてしまって、そのままになっていた。いつも執拗なつぐみのメールは、それで途絶えた。
「じゃあ、メールの返事、きかせて」
 そう囁いて、つぐみはぼくの腰に腕をまわす。ぼくを引き寄せる。
「きかせて」
「うん……」
 答えを考えてきたわけじゃない。うやむやになればいいと軽く考えていた。
「あたしはどっちでもいいの。でも、あたしは知りたいの。トモくんが、あたしのことを、どうおもってるか」
「どうって…」
「カラダだけなの?」
 ぼくは首を横に振る。
「じゃあ、なに?」
「ぼくは…」
「なに?」
「そのときのことを、覚えていないんだよ。どう思っているかなんて、わからない。つぐみは大切なお友達だし、これからも仲良しでいたいから、つぐみにそんなことしたなんて、信じられないんだ」
「それは、あたしには恋愛感情なんて抱けないってこと?」
「これから先はわからないけれど、いまは……」
「いまは? セックスはできるの?」
「う…うん」
「男の子って難しいね」
 そう言って、つぐみは起き上がる。ぼくの腰に腕をまわして、上目遣い。
 保健室のドアが開く。
「せんせー、七隈せんせー」
 女子の声。ぼくはベッドから降りて、スツールに座り直す。衝立の影から、女子生徒が覗き込む。髪の長い、小太りの女の子。みたことある子。そういえば、オカルト研究会のひとりだった。上履きの色は、二年生の色。一学年上。
「あっ、七隈先生は?」
「まだ戻ってないですよ」
「そうなんだ」
「オカルト研究会のひと?」とぼくは訊く。
「うん、そうだよ」
「名前は、なんでしたっけ?」
「新浜佳枝」
 ぼくは急におもいだす。老人ホームに同じ姓のひとがいた。携帯を取り出して、メールを調べる。新浜佳枝に携帯をみせる。
「このひとって、新浜さんのお爺さんかなにか?」
 新浜佳枝は携帯の画面を覗き込む。受け取る。
「うん、五郎はそうだよ、お爺ちゃんだよ。でも、このメールはなに?」
「こないだ、一方的に送られてきたよ」
「お爺ちゃん、メールとかできないのに」
「ぼくは、メールアドレス教えてないんだ。誰かにきいたのかな?」
「お爺ちゃん、ホームにきいたら出たって言われたんだけど、ウチには帰ってきていないんだよね。お父さんもお母さんも心配いらないって言うけど…。どこ行っちゃったのかなぁ?」
 新浜佳枝はぼくに携帯を返す。新浜佳枝はそっぽをむいて、机の上の予定表を眺めて、そのまま幽霊のようにふらりと保健室を出て行く。

 中央公園の入り口、階段の影にぼくとつぐみは一緒に隠れて、下校途中の男女を盗み見る。
「崇くんと結愛だよね」
 つぐみが囁く。ぼくは唇に人差し指をあてる。
 二人は公園の前をゆっくり歩く。崇はポケットに手を突っ込んだまま、結愛がその腕にまとわりつく。崇はときどきへらへら笑いながら、話に夢中。二人とも、ぼくらに気づかず通り過ぎる。
「学校のなかでは、あんまりあの二人が一緒にいるの、みかけないよね」とぼくが言う。
「結愛も崇くんも、とりまき多いからじゃない?」
「ほんとにつきあってるんだ……」
「崇くん、そういう話しないの?」
「しないよ、そういうタイプじゃないもん」
 結愛と崇がみえなくなって、ぼくらは公園の階段をのぼる。東口の噴水広場。ベンチに寝そべって雑誌を顔にのせたサラリーマン、犬の散歩中の奥さん、水鉄砲を持った子供たち、グレーの作業服を着た建設業者、時計台の前で携帯をいじっているOL。じりじりゆらゆら石畳の地面から熱気が立ちのぼり、広場の噴水の前に、車椅子に乗った青年と介添の少女をみかける。美しい青年と、浮世離れした少女。夏美をおもいだす。
 ぼくたちはぼんやり二人を眺める。青年がぼくたちに気づく。少女も気づく。青年は少女にことばをかけて、少女は車椅子をおす。噴水広場から出ていく。ぼくたちは歩き出す。つぐみがぼくの顔を覗き込む。
「蛍ヶ浦ってさ、もともとふるーい宿場町なんだって」
「宿場町って、宿屋のあるところ?」
「そう、むかし、人喰事件があったんだって、おばあちゃんにきいたの」
「なにそれ?」
「なんか、すごく寒い冬で、記録的な大雪があった年に、蛍ヶ浦のいちばんおおきな旅館の女将が、上半身を食べられちゃったんだって。熊の仕業だとおもわれて、マタンギとか言う人たちが集められたの。鉄砲撃ち」
 たぶん、マタギのことだけど、話の腰を折りたくないから黙って聞く。
「今のこの中央公園の敷地は、お金持ちの地主さんが住んでたんだけど、そこの下男が血だらけで逃げてきたんだ。羆が出たって言って」
「やっぱり熊だったの?」
「それがね、警察とマタンギさんたちが屋敷に行って調べても、熊の足跡なんてないの。代わりに人間の足跡があって、追いかけていったら、郵便屋さんが倒れてたの。血まみれで」
 ぼくたちは広場を通り過ぎて、林道を歩く。公園の西側に通じるこの遊歩道でつぐみに誘惑されたことを想い出す。
「警察のひとが郵便屋さんを助け起こそうとしたら、郵便屋さんは飛び起きて、血まみれの口で警察官にガアッって」
 そう言って、つぐみはぼくに襲いかかるマネをする。ぼくはつぐみを抱き留める。つぐみはぼくの首筋にキスをして、強く吸う。だめだよ、つぐみ、だめ。
 いや、いやっ、やめて、だれかっ。
 近くで悲鳴。女の子の悲鳴。
 ぼくとつぐみは顔を見合わせて、声の聞こえたほうへ駆ける。
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