R18恋愛官能小説 青山倉庫

快楽コサイン

第1話「従兄妹のそれぞれ」


『智之』

 朝から雨がざあざあ降っていた。
 ぼくはお父さんの車に乗って叔母さんの家に泊まりにいくところで、お父さんは朝から雨の降る空と同じように曇った表情で髭も剃らずにでかけて、高速のインターチェンジを通り過ぎてしばらくずっと会話がない。いや、ぼくたちは、ぼくが一月前に中学生になってからほとんど会話がない。ぼくはお父さんがきらいになった。理屈っぽくて、高圧的で、自信家な性格のせいで、お母さんは家をでていったとおもう。
「智之、休みはいつまで?」
 お父さんが話しかける。ぼくは窓の外に顔を背けたまま答える。
「五日までだよ」
 会話が途切れる。もともとお父さんは話すのが得意じゃない。あまり深い話をすると喧嘩になってしまう。
 中学生になってから、片親であることをコンプレックスに感じていた。父親は破ることのできない岩盤で、ぼくはそれに守られていると信じていたのに、その岩盤が舞台のセットみたいにハリボテの見かけ倒しだと気づいて、急にお父さんを矮小に感じるようになった。しばしば、お父さんはほんとうのぼくのお父さんではないかもしれない、とも感じる。だいいち、似ていない。体がちいさくて色素の薄いぼくとは対照的に、お父さんは日焼けした大男で、声も大きくて、その一挙手一投足がいちいち芝居がかっている。それが鼻につく。今日は特にそうだ。
 芝居がかった口調で、お父さんはぼくの方を見て言う。
「そうだ智之、お父さんが働いてる処を見るか?」
「いいよ別に、劇場でしょ」
「見たことないだろう」
「乱歩の小説で読んだよ。怖いところだよ」
「父親の働く職場くらい、一度は見ておかないといかん」
「なんでだよ。お父さん、前向いて」
「あんな、智之……」
「おとうさん!」
 ぼくの叫び声と同時に、車は欄干を突き破る。ふわりと宙に静止し、急降下して川にザブンと落下する。開いていた運転席の窓から水がザアッと殺到して、あっというまに濁流に飲まれ、車はぐんぐん沈んでいく。ぼくは体中が硬直したまま動けず、お父さんがぼくの襟首をつかんで揺すっても動けず、お父さんはぼくのシートベルトを外して、ぼくのシャツをつかんで自分の上を通して、ぼくを運転席の窓から外に押し出す。黒い緑色と茶色の混ざった見通しの悪い水中を、ぼくはもがくこともできずにただ流されて、コンクリートの橋桁が背中にドスンとぶつかって、ぼくはようやく死にものぐるいで苔に覆われた橋桁を引っ掻いてのぼる。
 頭だけ浮き上がる。雨で増水した川の水が途切れることなく橋桁を洗い、水の圧力に屈してぼくは流される。

 ぼくは病院で目覚める。
 レスキュー隊員の分厚い手袋に捕まれて、ヘリコプターで運ばれる時にたくさん水を吐いた記憶がぼんやり。隣のベッドには火傷した子供が寝ていて、ときどき看護婦さんが体温計と点滴を交換して、蒸しタオルを渡してくれる。それ以外に、ぼくに会いにくる人はいない。
 数日後、警察の人が来て、流されたお父さんの捜索が打ち切られたことを知らされる。その後、保険会社の人や、顔も知らない遠い親戚のおじさんたちや、いろいろな大人が入れ替わり立ち替わりぼくを訪れる。ぼくはしばらく児童相談所に預けられることになったときく。退院後、一度だけマンションに戻って、荷物をまとめる。相談所の職員の車で送ってもらう。
 相談所の入り口で、手続きの書類に氏名を書く。櫻井智之。
「学校は、どうすればいいんですか?」
「ここにいる間は、今まで通りでいいよ」
 男性職員はそう答える。
 小さな子や、ぼくより年上の男女まで、いろいろな子が生活していると言う。そして、少なくともぼくは長期間そこで過ごすことはない。ただ、おとながなんとかしてくれるのを待てばいい。無責任で狡くて自分勝手なおとなを、こんなときに頼らなければならなくなったことに腹が立つ。仏頂面で応接室のテーブルを睨んでいたぼくに、男性職員は飲み物を差し出す。パーテションの向こうで、別の応接スペースに女の子が入る。一瞬見えた横顔のとても綺麗な子。滑舌の良い話声がきこえてくる。ぼくはその少女のことが気になって仕方がない。
 ぼくは個室をあてがわれる。荷物を下ろして、共同の浴室でシャワーを浴びる。脱衣所で背の高い男の子とすれ違う。体中に青痣がある。廊下で泣いている女の子がいる。受付で怒鳴っているおとながいる。部屋に戻ると、窓の外をパトカーと救急車が通過する。小さな木のベッドから、ワセリンのにおいがする。さっき見かけた少女も施設の子なら、どこかですれ違うかもしれない。

『恵未』

 ゆきえがあたしのランドセルを持って、坂道をかけていく。あたしはその後を追いかける。追いつく。製材所の前。朱い帽子をかぶった製材所のおじさんが錆びた門扉から出てきて、ティッシュに包んだお菓子をくれる。あたしとゆきえは、ありがとう、と言って再び走り出す。息切れして、ゆきえが立ち止まる。背後から抱きつく。ランドセルを二つとも落とす。
「恵未、ちょっと待っ…、はぁはぁ、疲れたよ」
 ゆきえは駐車場の車止めに腰掛ける。あたしも隣に腰掛ける。ティッシュをひらいて、お菓子を食べる。駐車場からは、螢ヶ浦ニュータウンの全景が見渡せる。ゆきえと二の腕を触れあわせる。ゆきえはあたしと同じくらい背が低くて、いつも鼻にかかった甘えた声で喋る。ゆきえにはお姉ちゃんがいるから、甘え上手なんだとおもう。
「ねえ、ゆきえ、今日、遊びに来る?」
「ううん、今日はあたし、英会話があるから」
「そっか…」
 立ち上がる。ランドセルを背負って、ゆきえと手をつないで坂道をくだる。
 ときどきゆきえを遊びに誘う。家に帰っても、太陽が出ている間、お母さんは寝ている。お母さんは夜にお仕事をしているから、起こしてはいけない。お父さんはいない。最初からいないから、淋しくない。だけど、家に帰ってひとりきりでいると、ひどく憂鬱になる。飼っていた犬が死んでしまってから、気持ちが不安定になることが増えた。ひとりでいるときは、本を読む。パソコンを触る。お母さんが起きてくると、晩ご飯の支度を手伝う。いっぱい喋りたいのに、お母さんはあまり喋ってくれない。いつも疲れた顔をしている。毎年、ゴールデンウィークに遊びに来る伯父さんと従兄弟のお兄ちゃんは事故に遭って、今年は来なかった。
「じゃあね、恵未ちゃん」
 分かれ道でゆきえが手を振る。あたしもバイバイと手を振る。工場沿いの砂利道を歩く。蒸した空気が水のように沈んで、風は動かなくて、蒼い空が幾本もの黒い電線に断ち切られ、その隙間をツバメが飛び去っていく。
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