R18恋愛官能小説 青山倉庫

人形地獄

第27話「罠と取引と後宮暮らし」


 すえた臭いの充満する下水の坑を伝い、わたしと一ノ瀬先生は方位磁針を頼りに南へと進む。
「先生、今どのあたりなのですか?」
「わからん、二百米も進んでいないだろうな」
「ひどい臭いです先生、息がつまりそう」
「我慢しろ真弓、糞尿も一緒に流れてくるんだ、落ちても助けないぞ」
 ぬるぬるしたモルタル接ぎの壁に手を突きながら、少年犯罪を追いかけている同期の津川を妬ましくおもう。悲惨な戦争に日本が負けて七年も経つけど、世の中の道徳は戦前と変わらず潰滅したまま、想像もしなかった事件がたくさん起きる。津川は寝る間も惜しんで奔走しているというのに、わたしは汚水の管を這いずり回って汚れきって、津川の半分の給与で汚い仕事。悔しいけれど、わたしにはどこにも改悛の余地はない。間違ってはいない。では、こうなったのは誰のせい?
 一ノ瀬先生は懐中電灯を掲げ、前方の階段を指さす。七段の階段を慎重にのぼり、半円状の低い天井と浅い水の流れ。その代わり通路は途切れ、ここから先は溝の中を歩かなければならない。さっきとは違うけど、ひどい臭いなのは変わらない。漂白剤と酢酸の混じったような、化学実験を思わせる病的な臭い。わたしは足が竦むけれど、一ノ瀬先生はバシャバシャと溝のなかを突き進む。階段の上で歩き出せないわたしを振り返る。懐中電灯の光がまぶしい。
「どうした真弓」
「先生、厭な予感がしますわ…」
「この島に降り立ったときから、厭な予感でいっぱいだ。今更なんだ、諦めて帰るのか?」
 わたしは一歩踏み出す。足の裏に柔らかい感触を覚えて、鳥肌が立つ。生ぬるい汚水と洗浄液の臭いが蔓延した天井の低い坑を、腰をかがめて進みつつ、あのマスタフィルムを再考する。
 肝心の那須野雅美の映像よりも、わたしは前半の阿鼻叫喚に動揺していた。適当なことばがみつからないけど、おぞましいと嫌悪を感じながらももう一度みたい、もういちどじっくりと瞼に焼き付けたい、いや、それ以上の感覚、むしろ渇望に近い焦燥。焼き増しフィルムよりも圧倒的に鮮明なマスタの地獄絵図は、とても人形によるギミックにはみえなかった。
 先生が立ち止まる。天井に懐中電灯を向ける。ぽっかり空いたまるい穴と、手摺り。
「真弓、先に登れ」
「でも先生…」
「早く登れ」
 わたしは先生に抱えられて手摺りを掴む。お尻を突きあげられて、狭い坑をよじ登る。片足を手摺りにかけようとしたとき、声がきこえた。赤ん坊の泣き声、おんなの声、いいえ、これはアノときの声。耳をすましていると、突然、ごぼごぼと厭な音が響いて、暗闇の先を仰ぎ、わたしは頭から排水を被る。片足が滑る。どろどろした粘液のような下水はわたしを坑から押し流し、わたしを受け止めた先生が尻餅をつく。人間はほんとうに驚くと声も出ない。わたしたちは口を大きく開けて息をしながら、頭上から降りそそぐ青臭い汚水から逃れるけれど、滑らかなヘドロに覆われた床はつるつる滑り、わたしたちは奥へと滑り始めたとき、床がゆるやかに傾斜していることに初めて気づく。

 実次はテエブルの上にジュラルミンのケエスを置く。ダイヤルを回して蓋を開け、浅井耕助に向ける。ウレタンの緩衝材の中央に、金属のケエスで護られた血液アンプル。浅井は白い手袋をしたままアンプルを手に取り、テエブルランプの明りに透かす。
「十分な量です」
 浅井が云う。実次は一枚の紙を差し出す。
「では、受取書に署名と捺印を…」
 万年筆を受取り、浅井耕助と署名し、慎重に印鑑を捺す。薄暗い書斎の明りは、テエブルランプと壁掛けの間接照明ばかり。実次は写真の発色を確認するときに、専用の蛍光灯を使う以外は、直射光を嫌う。
「契約の履行は、確認が済み次第、執り行わせて頂きます」
「なんの確認ですか?」
「本物であるかどうか検収します。我々の研究に役立つものでなければ、取引は成立しません」
「なるほどね…」
 実次は受領書をしまう。浅井はケエスを閉じて、溜息をつく。
「実は本社から、もうひとつ要望があがりまして。それがまた、少々頼みづらいことかもしれませんが…」
「なんでしょう?」
「石井リポオトです」
 実次は仮面の縁を撫でる。
「なんですか?」
「知らない筈ないでしょう、石井博士の人体実験報告書」
「それはGHQに接収されたのでは?」
「偽物がね」
 書斎の壁にかけられた那須野医師と実次の写真を眺めて、浅井はもういちど、偽物がね、と呟く。上目遣いで実次をみる。時計が九時の鐘をボオンと打つ。
「それは契約にありませんね」
 実次が云う。云って、煙草に火を点ける。
「支援期間を伸ばしましょう」と浅井。
「人魚の血だけに飽き足らないのですか?」
「ご理解ください。我々は、細胞培養などに成功したところで、得るものはすくないのです。研究を加速させなければならない、それも、これから五年以内に…」
「リポオトを得て、何をするつもりですか?」
「我々も、種児(たねご)をつくるのです。そうですね、都築殿の保有する少年と違い、自家受精できる両性具有の種児」
「なにを云っておられるのやら…」
「冗談などではありませんよ、私たちは大真面目です。五年以内に実現できなければ、研究費は大きく減封されるでしょう。我々はまとめて改易されるのです」
 ドアがノックされる。実次は入りなさいと云う。
「ご主人様、よろしいでしょうか?」
 女中の珠莉が首を垂れる。十年前に比べ、背が高くなり、大人のおんなに成長した珠莉は、二度の縁談を断り、都築家で働き続けることを選んだ。珠莉は都築家にまつわる多くの秘密をしっている。もう余所に出すことはできない。
「どうしたのです?」
 珠莉は実次の傍により、耳元でひそひそと囁く。実次の眉がつり上がる。珠莉はお辞儀をして部屋を後にする。
「どうかされましたかな?」
 浅井が訊く。実次は腰を浮かす。
「急用ができました。申し訳ないが…」
「ああ、あの二人の記者ですか」
 実次は腰を浮かしたままの格好で硬直する。浅井は手を挙げて制する。
「ご心配なく、お座り下さい。あの二人には地下道の抜け道を教えておきましたから…」
「ご存じなのですか? 浅井殿は何もかも調べを付けているようですね」
「島の排水に触れた生命のなれの果てをしっていますからね。覚えていますか、高瀬義輝を…」
 実次は腰を下ろす。煙草の火を消す。
「いまも我々が匿っているのです。あれが世間に出ると、大変マズイ、あなたにとっても、わたしたちにとっても。しかし、怖ろしいですね。種児の血と精が、男女を見分けるとは」
「そのあたりのメカニズムについては、私に助言できることはありませんよ」
「ひょっとして都築殿、差し支えなければ教えて頂けませんか、その仮面の下は…」
「そうです、ひどい浮腫があります。私もあれに触れたのですよ。ほんの僅か」
 浅井は立ち上がる。歩いて、書棚の背表紙を眺める。写真の本、絵画の本、思想、歴史、光学、数学、文芸。そして夜闇の窓の前に立ち、実次に背を向けたまま話す。
「今回は私の機転で救われましたが、あのような輩がこれからも島へ舞い込む恐れがある。そこで…どうでしょうか、都築殿にはこの際、本物の人形師になって頂くというのは。もちろん、これまで通り、写真をお続けになられて結構です。しかし、元来、都築家は人形師の家柄。表向き、精巧な人体模型技師のひとりとして舞洲で顧問になっていただき、我々の研究に参加して欲しいのです。ご存じとは思いますが、那須野医師が持ち帰った実験フィルムの一部が、新聞社を通じて各報道機関に流れています。一応は人形をつかったギミックと信じられているようですがね、疑いを挟む連中も多い」
「私には、人形など作れませんよ」
「ええ、作らなくて結構です。体裁ですよ、単なる」
 消えてない吸い殻からひとすじの煙が立ち上り、ちりちりと燻った微音に耳を澄ます。

 死刑囚の部屋のようだった。
 お屋敷を取り囲むその寮で、わたしはミナ子と幸江の二人と同室になり、歌子とは離れて暮らしている。ときどき会っても、ゆっくりお話しする時間を持てない。
 小さな寝台のうえ、全裸になって股をひらき、ミナ子がわたしの粘膜に舌を滑らせる。青白い顔をした幸江は向かいの寝台に腰掛けて、わたしとミナ子をぼんやりと見つめる。憂鬱な後宮暮らしとは、傍女という触り心地のよいただのことばがひとり歩きした跡についてくる肌色の安寧にすぎない。
「ねぇ、朱美さん。わたしにも、してくださらない」
 ミナ子はそう云って、わたしを跨いでお尻を向ける。わたしはミナ子の肉の溝を指でひろげて、唇をつける。最初の頃と違って、もう全然抵抗がない。
 ミナ子も幸江も、島へ来てそれほど経たないのに、枕当番がまわってくるまでは、日がな一日こうしてお互いのからだを愛撫したり、散々廻し読みされて表紙がボロボロになった小説などを読んだり、ぼんやりと焦点のあわない目をどこかに向けて、なにも考えないで過ごす。
「お隣さん、激しいわ…」
 ミナ子が囁く。さっきから激しい振動が伝わって、か細い喘ぎ声と、オネエサマ、オネエサマ、と呼ぶ声と、絶頂の悲鳴とが交互にきこえてきて、静かになる。ほどなく、再び振動が伝わる。のべつ…飽くなき…めくるめく、違う、これは暇つぶし。退屈で退屈で退屈でしょうがない。すくなくともおんなどうしの交接には互いを傷つける要素がすくない。
「隣の姉妹ね、道具を使っているのよ」
 ミナ子が教えてくれる。わたしには興味がないけれど、他に話題もない。
「どのような道具?」
「雅之さまの、アレの型を取った棒があるのよ、うふふ」
「へええ」
 会話が途切れてしまう。お喋りを続ける元気もないし、わたしはミナ子のはなびらを拡げて陰核を吸い出すのに忙しいし、ミナ子もわたしに同じようにするから、できればそちらに気持ちを割り当てたい。幸江は虚ろな眼差しで、やはりぼんやりとわたしたちを眺める。
 この寮からは、月にひとりかふたりの少女が退寮する。寄る辺なく引き取られた子たちばかりだから、誰かに貰われていくことは喜ぶべきことかもしれないけれど、わたしたちは奴隷として売られていくのだ。その日がいつになるのかわからないけれど、屠殺を待つ牛のようなきもちで何年も変わらない生活を続けている少女もいて、この人形屋敷全体から陰鬱な雲が湧き上がって、薄汚れた壁にべっとり染みついている。幸江は先週まで他の部屋で生活していたけれど、同室の娘が売られていったことで、まるでたましいが抜けたようになった。
 わたし。わたしは変わらない。ここへ連れてこられたあの日から、異様が蔓延する島の南側で、なにかみえないものに怯えながら暮らしています。変わらない。なにもかも。あの日、雅之さまに抱かれた日以来、伸び続けていた身長も、膨らみ始めた乳房も、いろいろがとまってしまって、ひらきかけの蕾を縫い付けたようにぴったり綴じられてしまった。
「ミナ子さんは、いつから?」
 わたしは初めてその疑問を口にする「いつからこの島に?」。
「わたしは二年前よ。当時、島の北側で疫病が流行って、ヒドイ有様でしたわ」
 ミナ子は起き上がって、からだの向きを変える。わたしに覆い被さって、唇を重ねる。
「疫病?」
「ええ…。島全体に拡がっていたのですけど、男の方だけが亡くなっていたわ。都築様は原因をしっているようで、島と本土の往来を禁止なさいました。今の診療所の裏手に焼却炉があって、屍体をそこで焼いていたのを覚えていますわ。トテモ怖ろしい光景と、人が焼かれるときの厭な臭いがあちらこちらにこびりついて…。戦争中でもこの島は爆弾も落ちなくて、何事もない平和な島だったそうよ。なのに、あんなことになるなんて」
 ミナ子はわたしの肩に頬を載せて、指先でわたしの胸をなぞる。
 空襲で別荘が焼け落ち、わたしと歌子は郊外の小さな住宅に移った。その頃のことは、ぼんやりとしか覚えていないけれど、お優しかった麗奈さまがからだの半分を火傷して、病院の小さな寝台のうえで息を引き取ったときの姿だけははっきりと覚えている。お医者さんが死亡時刻を告げて、お母様が小さなノオトにその時刻を書き取っていた。雨のお葬式と、泣いている歌子と、霧に包まれたようなお母様のお姿。
 ミナ子はわたしに覆い被さったまま、すうすうと寝息を立てはじめる。幸江は寝台の上でゆっくりと横になり、わたしたちを眺めたまま、やはりどこか遠くに焦点をあわせる。そのとき、扉がノックされた。刈谷と呼ばれる髪の長い少女が、柔らかな泉州タヲルを肩にかけて、はだかのまま、部屋にはいってくる。濡れた髪を拭きながら。
「朱美さん、枕当番、交替ですわ」
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