R18恋愛官能小説 青山倉庫

人形地獄

第22話「九年目の故里」


 元箱根港に降り立ち、ぼくは九年ぶりに本土の土を踏んだ。
 復興が進んでも、箱根周辺は淋しい土地のままだ。ぼくは二重廻しを着た実次と、新しい運転手の伊澤宗覚についていく。佐喜治はあくまで下男あがりの男だったが、伊澤さんは越前の名家出身の碩学。没落貴族の末裔なのだ。ぼくとはあまり喋らず、島の居住区に住んでいて、ときどきお屋敷を訪れて、ぼくたちに勉学を説く。としをとらないぼくたちに果たして学ぶことが必要か疑わしかったけれど、伊澤さんはぼくたちが興味をそそる話題をたくさん持っている。
 伊澤さんの車に乗って、ぼくたちは芦ノ湖が見下ろせる峠道を走る。舗装されていない砂利道で、車はひどく揺れる。島ではみることのできない染井吉野が、たくさんの花びらを散らして、砂利道に降り積もる。その美しさと緻密さに打たれ、ぼくは窓からじっとその並木を眺める。
「雅之くん、近々、島に学校をつくろうとおもうのですが、どうおもいますか?」
 実次がぼくに意見を求める。九年前と違って、実次はぼくをこども扱いしなくなった。
「先生と、生徒は、だれですか?」
「寮の娘たちです。それに、雅之くんと傍女たちも生徒ですね。先生は、伊澤さんにお願いするつもりです。人文、歴史、数学、道徳、音楽、それに、世の中のことなどを、こどもたちは学んでおかなければなりません」
「教師が伊澤さんだけでは、大変ではありませんか?」
「そうですね…。島には信頼できるにんげんしか招きたくはないので」
「伊澤さん以外に、心当たりはあるのですか?」
「ひとり、います。今日は、その人物に会いに行くのです」
「どなたですか? 那須野先生?」
 実次は微笑む。車が坂道をくだり始める。
「那須野先生に会いたいですか?」
「ええ、お会いしたいです。お元気ですか?」
「先月お会いしたのですが、相変わらずぴんしゃんしておられました」
 車は大きな料亭の前に停まる。ぼくと実次は車を降りる。伊澤さんは裏手の駐車場へ走り去る。給仕が二人出てきて、お待ちしておりました、と頭を下げる。奥の座敷に案内される。給仕がしゃがんで、襖を開くと、既に二人の人物がテエブルの前に座っていた。
「よう! 雅之くん、元気しとったか?」
「晃さん!」
 ぼくは驚いて声をあげる。慌ててお辞儀をする。晃さんは杯を掲げて、まぁ座らんね、と云う。ぼくと実次は、晃さんとその隣に座る少女に目配せし、向かいに腰をおろす。
「雅之くんは、チットモ変わらんね」
「晃さんは、焦げましたね…」
「ハハハ、言うなぁ」
 女中がお酒とお通しを持ってくる。実次と晃さんは乾杯する。
「晃くんには、先月手紙を貰っていたのですよ。私はてっきり、戦死したものと半ば諦めていましたから」と実次はぼくに説明する。
「ぼくもそうおもってました」
 晃さんは嗤って、お酒を飲み干す。
「そらひでえな。まあワシかてこないして生きて帰っとるんが不思議なくらいや。比島のどこだか分からんジャングルで米軍相手にゲリラ戦に明け暮れて、食料が尽きて、マラリアに罹患して、給水部隊がくれた糜爛性ガス爆弾持ってみいんな特攻してもうて、俺は陛下に頂いた刀へし折って、命からがら、逃げてきたんやで。ガリガリに痩せて、骨がつっかえてこれ以上痩せられんようになってもうて、リハビリちゅうのかな、病院でどえらい拷問くらって、やっと出てきたときには、あっけらかんと終戦や。なんや、この国は」
「どうしてすぐに連絡をくれなかったのです?」
 実次が訊く。晃さんは鯛の刺身を箸でつつく。
「しばらく抜け殻のようになっとってな。あれや、向こうで阿片やっとってん。あの毒が抜けきれんで、ほんま苦労したで」
 ぼくは向かいに座る少女と目があう。ぼくが微笑むと、恥ずかしそうに目を伏せる。優那や遥香に似た雰囲気。
「そうだ、雅之くん。この子は、歌子」
「あ、はい、こんにちは」
 ぼくは頭をぺこりと下げる。
「歌子と申します。宜しくおねがいいたします」
 丁寧にご挨拶。晃さんは茶碗蒸しを食べながら、云う。
「朝倉麗奈の娘や」
「えっ、麗奈さんの…」
「麗奈のこと、きいたか?」
「いいえ」
 晃さんは実次をみて、考えて、再びぼくに目を戻す。
「別荘が罹災して、麗奈は死んだんや」
 晃さんの乾いたひとことに肝を潰され、ぼくはことばを失う。

 料亭を後にする車窓に、晃さんが手を振る。
 ぼくは歌子と隣り合って後部座席に座り、伊澤さんの運転で港へ戻る。実次の白い仮面が夕陽にあかく映える。
 麗奈が死んだことをきいて、ぼくは奇妙なむずがゆさを覚える。麗奈はぼくに抱かれたくて、ふつうの人生を棒に振ってまでぼくのために尽くしてくれたのに、ぼくは優香理さんや、少女たちばかりをみて、麗奈のことを顧みることはあまりなかった。自身の非情さに胸が焦がれる想いで、ゆるやかなカアブを曲がる車の中で、徐々に淋しさが募り、はらはらと涙が溢れだす。寡言の歌子はただぼくの顔を覗き込んで、ハンカチを差し出す。ぼくはありがとうと呟く。歌子は、どういたしまして、と囁く。
「悲しまないでください。お母様は、仕合わせでした」
 そう云って、歌子は慰めてくれる。ぼくは何も言えず、目を真っ赤に腫らして、ときどき鼻を啜って、漸く落ち着いたかとおもえば、こどもが産まれたら雅之さまに抱いて頂きたいわ、と云っていた麗奈の仕合わせそうな表情をおもいだして、また涙が溢れてきて、とうとう堪えきれずに、声をあげて泣き出してしまう。
 右手に再び芦ノ湖がみえる。港に到着する。ぼくたちはトタン屋根の小屋に入って、漁師さんと一緒にお茶を飲む。空は晴れているけど、今夜は大時化だと云う。小屋には漁師たちの他に、若い女を連れた男性の姿もある。鴉羽色の背広を着た男性は、晃さんと同じくらいか、女性はもっと若くて、男性のことを先生と呼ぶ。窓の外で、海女さんたちが網を畳んでいる。みんな何か唄っている。御詠歌をくちずさんでいる。ぼくは実次に訊く。
「晃さんは、島へ戻らないのですか?」
「そのうち戻ってきますよ。かれには、音楽の先生をやってもらいたいのです」
「一緒には戻らないのですか?」
「優香理を、連れてくるのです」
「優香理さんを…」
 港に臨時船が到着する。ぼくたちは小屋を出る。
 湿気を含んだ海風がゆったりとながれて、ぼくの両脚を撫でる。
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