R18恋愛官能小説 青山倉庫

人形地獄

第3話「那須野医師の嘆願」


 その日、車窓からみえる景色がいつもと違っていたし、後部座席に乗っているのはぼくひとりだった。
 ぼくは朝早く起こされて、実次に連れられて、車に乗って都内へ向かった。車はお屋敷が並ぶ住宅街に入り、おおきな和宅の前で停まる。車を降りて、実次についていく。
 黒いフロックコオトを着た実次は、外出時にも銀色の仮面で顔の右半分を多い、モノクルを左の眼窩にはめる。明治に流行ったシルクハットを被らずに、いつも安物のフェドーラを被るのは、なにかのこだわりがあると訊いたけど、よく覚えていない。
 ぼくはコオデュロイの洋服を着せられ、初めてタイを締める。すこし息苦しい。サイズはあっているけど、ぼくの下腹部からへその上まで反り返った逸物が計算にはいっていない。
 玄関をくぐって引き戸をあける。実次が大声で、御免、と言う。和装の女中が二人、廊下を摺足で歩いてくる。うやうやしく傅く。
「都築様、お待ち申し上げていました。どうぞお上がり下さい」
 ぼくたちは屋敷の奥に案内される。和宅の客間ではなく、広間に通される。楕円のテエブルにお茶を三つ出され、女中と入れ違いに年配の男性が入ってくる。
「やあ、都築くん。久しぶりだね」
 実次は弾かれたように立ち上がって、四十五度にお辞儀をする。ぼくも立ち上がって、お辞儀する。男性は片手を挙げる。
「まあ座って。そんなんじゃ話もできない」
 ぼくたちは再び正座する。実次は見たことがないほどに硬くなっている。
「那須野先生、お久しゅう御座います」と実次が言う。
「きみが予科を飛び出してから何年になるかな、もう四年か。きみはいくつになったね?」
「おかげさまで二十二の春を迎えることができました」
「ハハッ、重病人じゃあるまいし」
 那須野先生と呼ばれた男性は、ポケットから銀色の煙草ケエスをとりだす。一本くわえて、マッチで火を点ける。那須野先生は実次にもケエスをさしだして勧める。
「どうかね、退役時に拝受した恩賜煙草だ」
「わたくしは煙草を嗜みませぬ」
「そうか、都築くんはストイシストであったな」
 実次はハンカチで額の汗を拭く。那須野先生は煙草を吸う。モクモクと煙を吐く。ぼくは汽車をおもいだす。
「娘のことだが…」
 那須野先生が切り出す。実次が身を乗り出して拝聴する。
「手紙にも書いたとおもうが、小児白血病なのだ。雅美は十一になる」
「去年、一度お会いしたときは、お元気そうでしたが…」
「まだ病が発覚してから間もないのだが、いずれにせよ白血病の根治は不可能だ。よしんば癒えたとしても、永劫、再発に怯えていきてゆかねばならぬ」
「それでは、先生がわたくしをお呼びになったのは…」
「察しの通り、頼みたい」
 実次は膝を両手で掴んだまま、じっとうつむく。ぼくはテエブルの木目に目を落とす。
「危険があります」
 実次が言う。
「十一歳というのは、丁度、微妙な時期ではありませんか。失敗するとどうなるか、先生、ご存じでしょう。その話を那須野先生にしたのは、父の兼定ではありませんか?」
「いいや、お前の父親は、このことについては知らなかったよ。だから、血を全部使い果たしたのではないだろうか。この話をしてくれたのは、お前の祖父の嶺禅だ。わたしが嶺禅先生と親交が篤かったのはしっているだろう」
「はい、石井博士の口添えと記憶しております」
「嶺禅先生は、死の直前、お前のことと、都築家の遺産の一部をわたしに託した。兼定が都築家の遺産を私欲のために浪費し、すべてを使い果たすことを予見していたわけだ。皮肉にもその通りになったわけだが」
「遺産の一部、最後の血のことではないのですか?」
「いや、島のことだ」
「島?」
 那須野先生は座布団の脇へ退いて、畳に両手をつく。
「頼む、吾の最初で最後の頼みだ。雅美を救ってくれ」
 那須野先生は額を畳につけて、土下座する。実次は狼狽して、腰を浮かして言い放つ。
「先生、土下座などおやめください。わたくしは先生の望むとおりに致します」
 那須野先生は顔をあげて、ありがとうと言う。そして、ぼくを見る。
「その子が、最後の血を受け継いだ子かね?」
「はい、長友雅之と申します。先生の仰ったとおり、長友家の男児は、血に耐える抗体を持つ数少ない血筋でありました。ご存じかも知れませんが、長友家は先代の秀麗が放蕩の限りを尽くし、きょうだい散り散りバラバラになっていたので、消息を掴むのに大変苦労致しましたが…」
 実次がぼくのことを那須野先生に説明する。ぼくのしらないことを説明する。実次はぼくの家、長友家について細かくしっている。ぼくは偶然、都築家に引き取られたわけではなさそうだ。
 那須野先生は立ち上がる。ぼくたちの向かいの襖を開ける。ちいさな寝室に、ちいさな布団が敷かれ、そこに色白の少女が伏せっている。那須野先生が軽く揺すると、大きな目をあけて「オトウサマ」と力なく呟く。那須野先生は、少女に顔を近づけて、そっと囁く。
「雅美、よくなるよ。きっとよくなる」

 帰りの車中、助手席には洋服を着た看護婦さんが座り、後部座席のぼくの隣には、那須野先生の娘、雅美が座る。
 雅美はおとなしく後部座席の真ん中寄りに座って、前を向いている。那須野先生はハッケツ病と言っていたけど、病人にはみえない。肌は青白いけど、あかい唇は濡れているかのように艶があって、みじかく切りそろえた髪の毛は赤みがかって、はかない表情に病の兆しはみえない。白い着物の裾を折り直して、覗き込むぼくの目をみて僅かに微笑む。ぼくは照れて、したをむく。
「都築様、お爺さまの墓前に線香をあげたいのですが…」
 雅美が言う。実次はハンドルを切って、坂道に差し掛かる。
「申し訳ない、雅美殿の祖父の墓は遠い上、本日は予定があるので…」
「そうですか」
 雅美は窓のそとをみる。車と併走するあかい路面電車にみとれる。ぼくは実次に訊く。
「都築さん、今日は、なんのお話だったのですか?」
「仕事の話だよ」
「ぼくは、何かかんけいがあるのですか?」
「大ありです。雅之、きみの仕事の話だったのですよ」
「ぼくのお仕事、ですか?」
 実次がバックミラー越しに、ぼくをみる。そして言う。
「わたしの恩師の娘を抱くのです」
 軽々しく言われて、ぼくは意味が掴めず、言葉をうしなう。雅美をみつめる。雅美は明らかに狼狽えて、視線が泳ぐ。着物の裾をぎゅっと掴む。
「雅美殿、こんなところで言うのも不躾ですが、改まって話すことでもありません。最初に伝えておきましょう」
「はい…」
「雅美殿は不治の病です。お父様はわたしの恩師で、優秀な軍医でしたが、そのお父様をしても雅美殿の病を治癒することはできません。それはわかりますね?」
「ええ…」
「それでわたしたち、都築家にお声がかかったのです。我々はあなたの病を癒すことはできないのですが、病の歩みをとめることができる。しかし、あなた自身のじかんもとまってしまう。私はそれが心配なのです。雅美殿はいま、幸せですか?」
「わたくしは、お父様に愛されているだけで、じゅうぶんで御座います」
「そのお父様もいつか亡くなる。しかし、雅美殿は嫁にいくこともできない。他の男性に、女性として愛されることがない。死ぬまで退屈な日々を送るかも知れない」
「どういうことなのですか?」
「そのうち、だんだんとわかってくるでしょう。その前に、雅美殿は、雅之に抱かれることになります…」
 雅美はからだを硬くする。ぼくにもその緊張が伝わってきて、膝が震える。
「なにも心配しなくてよいのです。すべて雅之にゆだねて、ながれに逆らわないことです。あなたの平坦な安寧の人生のなかで、もっとも悦びに充ちたひとときを約束してくれるでしょう」
 雅美の唇が、はい、と動くけど、声はきこえない。
 やがて車は都築家への林道に差しかかる。舗装された道路のあちらこちらに穴があいていて、車中はひどく揺れる。雑草に覆われた庭球コオトの前を曲がるとき、平衡をうしなって雅美がぼくのからだに崩れかかる。ぼくが抱き留めると、はっと顔をあげて、ゴメンナサイと呟く。だけど、雅美はぼくの肩と太股に手をのせたまま、離れとようとしない。車が揺れるたびに、からだを密着させる。ぼくは、雅美の腰に手を回す。うなじの曲線に魅入る。やがて車が都築邸の敷地にはいる。玄関先にとまる。深緑色の給仕服を着た女中たちがならんで、お帰りなさいませ、と一斉にこうべを垂れる。
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