R18恋愛官能小説 青山倉庫

びろうどカンヴァス

第15話「長友家の真実」

 菊子が電話の前でそわそわしている。山崎さんが食堂の椅子に腰掛けて、じっと外を見ている。
 ぼくと咲月は、食堂のテーブルで昼食を摂る。食堂の観音開きの扉は開かれていて、廊下の電話が見えるようにしてある。女中が交替で電話番をする。重い空気が蔓延する。
 初音が紅茶を運んでくれる。今まで野暮ったかった女中の給仕服は、洒落たメイド服に変わっていたけれど、山崎りんが着ればいかな衣装も作務衣にみえる。初音は新しい服が似合っていた。ホテルのとくべつな給仕のように、輝いている。咲月は初音のスカアトを掴んで、「これならわたしも着たい」と言う。
 電話が鳴る。菊子が出る。
「はい、綾川で御座います。はい、ああ、左様ですか。いいえ、わざわざご丁寧に、有り難う御座います」
 電話を切る。菊子は溜息をついて、廊下の長椅子に腰掛ける。ぼくたちに言う。
「柳井さんでした。明日、暑中見舞いに伺う予定だったのですが、奥様が戻られるまで待つとのことです」
「菊子、替わりますよ」
 山崎さんが席を立つ。菊子と交替する。菊子は食堂の椅子に座って、初音が運んできた紅茶を飲む。

 一昨日の晩、ぼくとほとみが風呂場でつながっていた頃合、玄関先に警察の車両が押しかけた。
「新藤朱理、本名、長友朱理、湯島なだみ殺害教唆、ならびに皆藤良一殺害の容疑で任意同行を求める」
 刑事はそう言って、朱理を連れて行った。
 警察からは連絡がなく、特に新聞に書き立てられることもなく、ただ時間だけが過ぎていく。壁の振り子時計が、正午の鐘を鳴らす。初音が食堂の炉棚を乾拭きする。遠くで、ラヂヲがお昼のニュースを流す。咲月がデザートのケエキをほおばりながら、ぼくに訊く。
「直央、朱理さんは帰ってこないの?」
「わからない」
「どうして、連れて行かれたの?」
「湯島のおばさんを、良一おじさんに殺させたって、疑われているんだ」
「そう…、それは、ほんとうなの?」
「わからない。でも、ぼくはどっちでもいい。朱理さんに、帰ってきて欲しい」
 咲月はデザートを食べ終わると、椅子から飛び降りて、食堂を出て行く。娘たちは、玲庵先生が死んだときもなにも感じていない。朱理が警察に連れて行かれても、きっとなにも感じていない。ぼくは、初音を呼ぶ。
「今日は、写生はないけれど、姉妹たちには奉仕しなくちゃならないんです」
「床の間でよろしいですか?」
「はい、お願いします」
「かしこまりました」
 お辞儀する初音のエプロンの襟を掴んで、引き寄せる。
「早めに切り上げるから、その後で…蔵へ行きましょう」
「はい、よろこんで…」
 微笑んだ初音が、小さく応える。

 ぼくをこの屋敷に連れてきたあの運転手の乗る小豆色の車が玄関先に停まって、朱理が降り立った時間、ぼくは蔵の二階で、初音の胎内に射精している最中だった。
 ぼくはその日、朱理には会うことができず、夜中に夕食を運んできた菊子から詳しい話をきいた。
 取り調べの最中に、安西先生が陸軍の将校を伴って警察を訪れた。話は数分で済んだらしい。安西先生の助けだけでなく、玲庵先生の得意客だった将校の訪問が、朱理を放免にした。嫌疑そのものは晴れていないけど、軍が圧力をかけている間、捜査は進まない。あの刑事は諦めないかもしれないけど、少なくとも今は大丈夫。そういって、菊子はぼくを安心させようとする。
 だけど、朱理は厳しい取り調べのせいでしばらく床に伏してしまい、ぼくたちは手持ち無沙汰に数日を過ごした。中庭のケヤキやスモモに蝉がたかり始める頃になるまで、朱理とは顔を合わせることができなかった。
 ぼくは初音と共に、朱理の部屋を訪れる。朱理は屋敷から洋館へ寝室を移し、いつも大きなベッドの上で休んでいる。初音はぼくの後ろで静かに佇み、ぼくはベッド脇に立って朱理をみおろす。赤みがかった瞼。
「朱理さん、絵は描かないのですか?」
 ぼくは朱理の体調よりも、そのことが一番心配だった。ぼくも娘たちとおなじくらい薄情だ。
「ええ、描きます。だけど、今はまだだめです」
「どうしてですか?」
「絵描きには、そのときの調子というものがあるのです」
「調子とはなんですか? 良心のことですか?」
 朱理は羽布団をめくって、ゆっくり起き上がる。真っ白なギプスに覆われた右手。ぼくは驚く。からだの力が抜ける。朱理は俯いて、黙っている。ぼくも、黙っている。初音も、黙っている。
 ぼくは口を開く。
「もう、描けないのですか?」
 朱理は顔を上げる。微笑む。
「いいえ、また描きますよ」
「時間がかかりますか?」
「ええ、心配なのですか?」
「はい」
「どうしてですか? 直央には…、たくさんの時間があるではありませんか」
「ぼくと、娘たちが、こどもでいられる時間は、あと僅かです」
 朱理は譫言のように、ああ…、と呟く。
 窓からみえる庭園は、いつも庭師が手入れをしている。今日はみずを撒いている。撒いたみずが虹をつくる。玄関からのびる階段の両脇に、春薔薇と秋薔薇の植え込みがあり、そのむこうは円形の噴水と花壇、その周囲はロータリーになっていて、客の車が出入りする。今日は車の陰はみえない。山崎りんと赤銅色の車の運転手がなにか喋っている。りんが手を叩いて大笑いをする。
「直央と、あの子たちには、すくなくとも、あと十年はモデルをやってもらいたいのです」
「ぼくたちが、大人になってもですか?」
「ええ、だけど、直央は、きっと幼いままですよ」
「どうしてですか?」
「もう、しっているのでしょう? 直央は賢い子ですから」
 ぼくは俯く。頬が熱くなる。朱理も俯く。りんの笑い声が、二階の寝室にも響いてくる。
「詳しいことは、しりません」
 朱理が窓の外を指さす。山崎りんと、ぼくを屋敷に連れてきた腕の良い初老の運転手。
「あの運転手をしっていますね?」
「はい。でも、名前は存じません」
「直央のしっているお母様は、結婚される前から、あの方と恋仲だったのです。望まない結婚のあとも、あの方と直央のお母様の恋は消えることがありませんでした。それを知った直央のお父様は、直央のお母様を、その手にかけてしまったのです」
 ぼくは黙ってきく。朱理の話は続く。
「直央は、戸籍にはいっていなかったのですね。自分で不思議だとはおもいませんでしたか? 両親と、自分の名字が異なることに」
 ぼくは思い出す。臼井直央という名は、ぼくの学友に呼ばれる名だ。両親も臼井だったし、ときどき遊びに来る祖父も臼井だったし、郵便屋さんもぼくのことを臼井さんのお坊ちゃんと読んでいた。だけど、ぼくは、病院に行ったときだけ、長友直央だった。母は、病院では正式な名で呼ぶのです、と言っていた。
「臼井さんは、まだ幼かった直央の母親の代わりに、直央を育ててくださったのですよ。直央の母親は、ほとみと同じとしで直央を産んだのですから」
 朱理は片手で薬袋から顆粒剤の小包を取り出す。初音が慌ててかけより、コップに水を注ぐ。
「そういう…コトだったのですね」
 朱理は薬を飲む。コップを持ったまま、ぼくを見上げて言う。
「しらない方が、よかったかしら?」
「いいえ…。だけど、朱理さんのことを、お母様と呼ぶのは、難しいかもしれません」
 朱理はコップを口元に掲げて、くすくすと笑う。
「一向、かまいませんのよ」
「ぼくは、もうひとつしりたいのです」
「なんですか」
「朱理さんは、どうしてそんなに若くして、ぼくを産むことになったのですか? ぼくのお父様は、やはり朱理さんのお父様なのですか?」
「きいていたのですね…、武留さんにはなしたこと」
「はい…」
「あれは作り話です。あの方を遠ざけるための、よくできた物語」
「では、ぼくの父親とは…」
「しりたいのですか?」
「はい、教えて下さい」
 朱理はコップをサイドテーブルに置く。初音が盆にポットとコップを載せて、部屋を出る。ぼくは、初音が廊下で聞き耳を立てているような気がしてならない。後で話してきかせなければ。
「直央のお父様がだれなのか、わからないのです」
「わからない?」
「わたくしは、湯島浩三と契約していた画家、長友秀麗の娘なのです」
「あっ、玲庵先生の師…」
「秀麗は、浩三ととくべつな絵の取引をしていました」
「それは、ぼくたちと、同じような…」
「ええ、でも、少しちがうのです」
「どのように…ですか」
「わたくしはひとりで、三人の少年に抱かれていたのです」
「三人…」
「あなたと、逆ですね…ふふ」
 ぼくは黙り込む。朱理はうっとりした目付きで、窓のそとを眺めて、窓ガラスに映るぼくをみつめる。
「めくるめく日々でしたわ。わたくしは、朝から晩まで、三人の少年たちに代わる代わる抱かれ、胎内に少年たちの精と欲を放たれ、褥の乾く暇もありませんでした。そんな日々が長らく続き、わたくしはその幸せが永遠に続くかのように錯覚していたのです。だけど、終焉は突如訪れました。わたくしは初潮を迎えることなく、子を授かったのです。しかし、秀麗はそんなわたくしを描くことを辞めませんでした。妊娠している時期は裸像を描き、出産後は再びもとの生活にもどったのです。だけど、以前のような至福の時は失われ、わたくしはたんなる淫乱と化しました。出産に際して未熟児の帝王切開をおこなったわたくしは、その施術に伴い卵管結紮を施され、子を産めないからだにされてしまったのです。わたくしの産んだ子は、湯島に借金のあった臼井夫妻に引き取られ、成人するまで面倒を見て貰えるときいていました。ですが、わたくしは自分のからだの一部を失ったような虚脱に苛まれ、その淋しさを埋め合わせるために、あの性欲の塊のような少年たちに溺れていたのです。秀麗が死んで、わたくしはしばらく湯島のもとに身を寄せていたのですが、わたくしの身の上をしったうえで玲庵先生が引き取ってくださったのです」
 朱理は口を閉じる。長い睫毛に涙がきらめく。ぼくの膝頭は、体験したことのない種の焦燥にがくがくと踊り、脇を冷や汗が流れる。だけど、ぼくは訊くことをやめられない。
「三人の少年のだれかが、ぼくのお父様なのですね」
「そうですね。三人のうちのだれか、あるいは三人とも…」
「その少年たちとは、どういうひとたちなのですか? 湯島家のひとですか?」
「いいえ、違います」
「ぼくのように、身寄りのない子ですか?」
「いいえ、違います」
「知らない子たちなのですか?」
 朱理は口籠もる。ぼくは朱理をみつめる。朱理はぼくに目をあわせずに、非業の重さを以て、呟く。
「わたくしの、兄たちです…」
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