R18恋愛官能小説 青山倉庫

びろうどカンヴァス

第13話「通夜」


 玲庵先生は、琴音の式の五日後に亡くなった。
 感染るといけないからと、先生はぼくたち子供を部屋に近づけず、長い間、顔を見せることもなかった。座敷の中央、北向きに敷かれた布団に横たわる玲庵先生は、骨と皮だけに痩せ細り、もうなにも映さない虚ろな眼差しを天井に向ける。
「今はこんなに硬いのですが、こうしてもみほぐしてあげると、徐々に柔らかくなりますよ」
 葬儀屋の男性が、遺体の周りに座る三人の娘にそう教える。そして先生の指をもみほぐす。ぽきぽきと音がする。果凛とほとみが同じように先生の指を曲げる。咲月は痩せた先生の頬を指先で触る。つめたいね、と呟く。
 ぼくは先生の遺体に触れることができない。怖くて触れない。死が、感染するような気がして、近づくこともできない。ぼくらにとって支えだった先生が、こうして冷たくなって動かなくなると、とても頼りない。
「直央、落雁があるよ。食べる?」
 咲月に囁かれて、ぼくは頷く。しめやかな座敷を出て、台所へ行く。咲月は山崎さんから落雁を受け取る。二つに割る。ぼくらは階段をのぼって、館の二階へあがる。書斎を抜けて、バルコニイに出る。涼しい夜風が吹く。手摺りにもたれて、並んで落雁を食べる。
「先生、しんじゃったね」とぼくは呟く。
「直央は、かなしいの?」
「わからない。咲月は?」
「私は、なんともないわ」
「お父様なのに?」
「お父様じゃないわ、画家よ」
 齧り付いた落雁が二つに割れ、大きな塊を階下に落としてしまう。ぼくは、あっと声をあげる。咲月は夜空を見上げる。新たな参列者が玄関先に車で乗り付ける。バルコニーからよくみえる。初音と菊子が出てきて、新たな参列者を迎える。車を降りた老人を、咲月が指さす。
「安西先生だわ」
 安西浩光は、おぼつかない足取りで館に消える。玲庵先生と違って、峻厳なかんじがするひとだ。ぼくは自ら安西先生に声をかけることはできないだろう。
「今晩は通夜だから、お姉さまたちと、蔵へ行きましょう」
「通夜の晩なのに?」
「もちろんよ。一晩たりとも、欠かしたくないわ」

 焼香に訪れる参列客の前に戻る。
 朱理は白いハンカチーフを手に持ち、焼香をあげる客にお辞儀をする。果凛とほとみもそれに倣う。ぼくと咲月は座敷の隅にちいさくなって、弔問に訪れる顔を眺める。しらないひとたちばかり。しらないひとからぼくたちは好奇の視線を浴びることがある。そういうひとは、きっとぼくたちがモデルの絵を買っているお金持ちの得意客だから、ぼくは俯いて目をあわせない。いっさいの拘わりをもちたくない。
 安西先生が部屋に入ってくる。玲庵先生の遺体に一礼し、朱理のまえに正座する。丁寧にお辞儀をする。ごにょごにょと弔問の文句を言って、焼香する。軽く手を合わせる。再び朱理の前に戻り、懐から名刺を取り出して渡す。
「困ったことがあれば、いつでも連絡してください。綾川君は親友、いや…戦友なのでね。いろいろとお互いのあいだに蟠りを抱えてしまって、会うに会われず、死に目に会えなかったことが悔しいのです。どうか、吾に償いをさせてください」
「ご丁寧に、ありがとうございます」
 朱理は深く頭をさげる。
 安西先生はそのまま退出。ぼくらはその後ろ姿を見送る。幾人かの弔問客が、安西先生にお辞儀する。初音に聞いていたほど尊大なかんじはしなかった。玲庵先生よりも小さくて、萎んだ、ふつうのお爺さんだ。
 安西先生の後ろ姿を見送っていた朱理が目を見開く。群衆の中に、だれかをみつけて、軽く会釈する。視線の先には、弔問客に混じって長身の男性がたっている。しらないひと。朱理は再び挨拶にもどる。朱理の顔は青ざめている。白い肌がますますしろい。

 夜が更けて、弔問客が落ち着いた頃、朱理は通夜の席をたつ。
 ぼくは居眠りをする咲月に羽織をかけて、朱理のあとをつける。廊下を進んで階段を上り、勝手口から外に出る。ぼくも草履を履いて、足音を忍ばせる。灯籠の前に、煙草をふかす男性の姿がみえる。さっきの弔問客に混じっていた男。その男性が声を発したとき、ぼくはそのひとが刑事さんだと気づく。
「このたびは、お悔やみ申し上げます…」
「どうも…」と朱理が呟く。
「肺炎ですか?」
「いえ、腫瘍が転移したのです。お医者様には、もう随分前から、永くはないと…」
「この家と、先生の財産は、朱理さんが継ぐのですか?」
「はい…」
「先生はかなりの資産家のようですね」
「いいえ、借金もありますわ」
「ほう…、借金」
「湯島画廊を買ったのです」
「ああ、それはしってます」
「わたくしの絵が売れなければ、この家を手放さなければなりません」
「それは大変ですねえ」
「刑事さんが心配なさることではありませんわ」
「はっはっは、そりゃそうですね」
 朱理は刑事に背を向ける。月の光が、朱理の喪服の輪郭を描く。
「本日は、どのようなご用件で?」
「ああ、忘れるところでした。皆藤さんですけどね」
 朱理は少し首を傾げる。だれ?と呟く。
「皆藤さんです。皆藤良一、湯島なだみのツバメですよ」
「その皆藤さんが、どうされたのです?」
「死にました」
「へぇ…」
「自殺です。服毒自殺。これがまた妙な死に方でして、毒をあおって内臓が出血しているのに、血を一滴も吐かずにしんでるのです。司法解剖した臨床医から聞いたのですがね、骨が朱かったそうです。まるで、吐かなかった血が骨に染みこんだかのようで…」
 朱理はハンカチーフで涙を拭う。鼻を啜る。嗚咽を漏らす。
「もう、いやです!」
「ああ、これは失礼しました」
「もう、ひとがしぬのは、たくさんです!」
 朱理は来た道を戻る。木陰に隠れていたぼくたちに気づかず、勝手口から屋内へ戻る。刑事は朱理の後ろ姿を眺めながら、煙草を吹かす。
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