R18恋愛官能小説 青山倉庫

びろうどカンヴァス

第10話「水死体」


 ぼくと咲月は初音に連れられて、自動車に乗って町へお遣いに行く。
 初音は毎週末、町の百貨店で玲庵先生や朱理に頼まれたものを買いに行く。それは画材だけじゃなくて、独逸の陶磁器だったり、珍しい果物だったり、洋服や家具、雑貨、食べ物、飲み物、いろいろなもの。ぼくと咲月は百貨店に行ったことがなくて、初音に根掘り葉掘り尋ねていたら、玲庵先生が「一緒に連れて行きなさい」と言ってくれた。先生は先週から肺炎にかかって床に伏している。ぼくたちを連れて出かけるときはいつも一緒の先生がいないと、すこし心配になる。
 初音はぼくたちを三越に連れてきて、呉服や寝具を選ぶ。ぼくたちは寝るときは浴衣で過ごすから、咲月はいちどパジャマを着てみたいと言う。だけど、初音は余計なものは買えない。
 車で日本橋から銀座へ移動して、洋食屋で昼食を摂る。洋食屋の向かいにはお洒落なオープンカフェがあって、運転手はそこで珈琲を呑んでいる。洋食屋の奥に白い制服をきた海軍さんが集まって、お酒を酌み交わしながら、洒落たパイプをふかす。
「近頃、直央様は、朝が遅いですね」
 唐突に初音がそう言う。ぼくたちのテエブルには冷製スウプが並ぶ。咲月はお行儀よくスプーンを口に運ぶ。初音は焼きたてのパンを千切って、スウプに浸す。
「暑くて、寝苦しいのです」
「でしたら、お休みになるまで、わたくしが団扇で扇いで差し上げますよ」
「いいえ、それはだめです」
「あら、どうしてですか?」
 ぼくは向かいの咲月を見つめる。咲月は目が合うと、意味深な微笑みを浮かべて、ぷい、とそっぽをむく。視線の先、炉棚に置かれた少女の青銅像が、ぼくに朱理の絵をおもいださせる。精細なタッチの玲庵先生は先駆者であって、高雅で精緻を極めた朱理はあの絵の完成型。ぼくはしばしば、そうやって朱理の絵のことをふと思い出すことがある。
「どうなさりました?」
「え?」
 初音の声で我に返る。初音と咲月は顔を合わせて、くすりと笑う。
「まぁ、ぼんやりなさって」と初音。
「ごめんなさい。なんの話でした?」
「直央様が、夜は寝苦しいという話です」
「そうです、あの寝室は、夏になると風が吹かずに、昼も夜も暑いのです」
「直央様は、お嬢様たちに抱かれてお休みになるからかもしれませんね。子供は体温が高いですから」
「そうかもしれません」
 ぼくは頬を朱くして答える。ぼくは初音がスウプを口に運ぶ姿を眺める。十六になる姉の琴音よりも二つ年下で、姉妹でありながら似ていない。色黒で背が高く、殊勝な気質の琴音はぼくに優しく接してくれることはなかったけど、色白で背が低く、穏やかな性格の初音は、としが近いせいか、初めからぼくにとても優しかった。お客様の対応や、屋敷の雑事をてきぱきとこなす琴音は、ぼくたちの世話を初音に全部押しつけていたけど、初音は雑務よりもぼくたちの世話をしているときが一番楽しいと言う。
「以前、琴音がたいせつな時期だというお話をしましたね」
 唐突に初音が言う。ぼくは首を傾げる。
「それは秘密だとききました」
「ええ…。琴音姉さんは、安西家の長男のところへ嫁ぐのです」
「結婚するんですか? いつ?」
「まだ日取りは決まっていません。でも、もう結納は済ませてあるのです」
「ぼくたちは出なくてもよかったのですか?」
「ええ、身内だけで静かに執り行うようです。ですが、式には出席しなければいけませんよ」
 ぼくは運ばれてきた仔牛のバタア焼きに目をおとす。
 こういう貴族のお屋敷に雇われる女中やメイドは、賃金が少ないのだけれど、女工になるよりずっと仕事は楽だし、良い縁談にも恵まれる。そして、二十歳になるまえにみんな嫁ぎ先をみつける。そして高価な嫁入り道具を玲庵先生が琴音の実家に代わって納めてくれる。
 初音もいつかいなくなる。それが急に恐ろしくなる。
 今という幸せな時間を享受すると、ひとはその幸せが五年先、十年先も続くとおもいこむ。だけどそれは間違いで、その幸福は泡沫に過ぎない。家を出た甲斐さんがそう教えてくれた。
「食べないの?」
 先に柔らかい仔牛を平らげてしまった咲月がぼくのお皿を覗き込む。ぼくはナイフで仔牛を切り分けて、咲月の皿に載せる。

 ぼくたちは乗ってきた自動車に乗らず、咲月が乗りたいと指さした蒸気機関車に乗って帰宅する。
 客車は床から油の匂いがして、ぼくたちの座席には赤いマフラアを巻いた男性が相席する。男性は始終、分厚い本に目を落とす。咲月は窓から景色を眺める。初音は居眠りをする。ぼくも少しウトウトする。駅について、咲月に揺り起こされる。
 駅の階段を下る。ぼくたちは買い物の荷物を自動車で先に運んで貰っていたから、三人とも手ぶら。川沿いの道を、屋敷の方角へ歩く。学帽に汚れたシャツと短パンを履いた少年たちが棒きれを振り回して、河川敷を走り回る。ぼくも綾川の三姉妹も、あんなふつうの子供時代を送っていない。
「なにかしら…?」
 初音が道の先を指さす。
 人だかりができていて、制服を着た巡査が河原にしゃがみ込む。ホオジロが独特の節回しで鳴く。魚が腐ったような、ひどい腐乱臭が漂う。大仏様じゃあと野次馬の親爺が言う。書生の大仏様じゃあ。
 警棒を持った巡査が立ち上がって、野次馬を追い払うような動作をする。甲高い声で、同僚に言う。
「甲斐とは、また珍しい名前ですな」
「土地の者じゃないな」と同僚が答える。
「この有様じゃ、随分前に身投げしたんでしょ。どうします、事件性は無しですか」
「一応、検死して、身元確認して終わりやな」
 野次馬の中から、藍色の背広を着た男性が手を挙げて巡査に声をかける。
「お巡りさん、甲斐さんって、この仏さんのことかい?」
「着物に名前が縫込んであるんだ」
「甲斐さんって書生なら、ほら、あすこの綾川家に住み込んでるのも、甲斐さんだった筈だぜ」
 男性が山の方を指さす。子供たちが、化け物屋敷だ、と囃し立てる。
 ぼくたちは下を向いて、野次馬たちに目を合わせず通り過ぎる。幸い、滅多に外出しないぼくたちは、地元の人たちにも顔を知られていない。二町ほど歩いて、咲月が振り返る。
「化け物屋敷だなんて、失礼だわ」
 ぼくたちの住む綾川家は、屋敷の周辺に幽霊が出るという噂が古くからあるせいで、地元の子供たちは滅多に近づかない。それに、お屋敷の周辺は華族と成金がひしめく貴族の町だから、下町の人々はわざわざあの高台にまで上がってくることはない。
「初音さん、さっきの土左衛門、甲斐さんって…」
 ぼくは初音の袖をひいて囁く。初音は立ち止まって、屈む。言う。
「さっきみたこと、お屋敷に戻っても、誰にも喋ってはいけませんよ」
「どうしてですか?」
「難しいことは、しらない方がいいのです。嘘をつかなくて済みますから」
「はい…」
 ぼくは素直に頷く。咲月もつられて頷く。初音は再び歩き出す。ぼくらも後をついていく。近道の石段を登る。やがて屋敷が見えてくる。
 体格が倍くらいに膨れあがって、胴体が炸裂した甲斐さんのむごたらしい屍体が瞼に焼きついて離れない。
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