R18恋愛官能小説 青山倉庫

びろうどカンヴァス

第8話「玲庵先生の過去」


 子爵家の出身だった玲庵先生のほんとうの名前は、綾川勲(いさお)と言う。
 こどもの頃から絵が好きで、高等学校在学中に絵描きの道を志したけど、政治家だった父親は先生に絵を描くことを許さなかった。先生は一度は筆を折ったけれど、結局夢を捨てきれなくて、卒業と同時に出奔する。
 行く当てのない玲庵先生は、稜条寺という寺院の庫裡に忍び込んで寝泊まりしていたところを住職に救われ、出家して仏門に入る。そこで二年ほど過ごしていた先生は、あるとき日本画家の倉木雄蔵が寺に泊まった際、その絵をみて再び絵の道に戻るため、住職に還俗を願い出る。そのときに「玲庵」という名前を住職に貰った。
 玲庵先生は倉木先生の元で絵を学びながら、昼は吉原遊郭で慣れない客引きの仕事をして生計を立てた。そんな生活基盤の定まらないなか、日露戦争が勃発する。
 玲庵先生は召集令状を受け、陸軍第一師団の予備隊に配属される。予備隊は東京で訓練を受け、戦力不足だった旅順という処へ送られる。榴弾砲が飛び交い、白兵を強いられた部隊の仲間たちが次々と死んでいく中、玲庵先生の予備隊は最前線に居ながら奇跡的に大きな被害を被ることなく、援軍の到着まで大勢が生き延びた。
 屯田兵で構成される旭川第七師団に予備隊は組み込まれ、玲庵先生は洋画家の安西浩光と出会う。先生は当時無名だった安西と気が合い、兵役が終わったら一緒に洋画家の道へ進まないかと誘われる。
 死闘の末、攻略した旅順を後にし、奉天へ進軍する途中で予備隊は奇襲に遭い潰滅。そこで玲庵先生は脚に銃弾を受け、安西は背中から銃撃を受けて共に負傷し、同じ船で帰国する。

 戦後、油絵の道へ転身した玲庵先生だったけど、絵はまったく売れず、生活はままならなかった。同時期に帰国した安西浩光はすぐに二科展に入選し、気鋭の画家として早くから注目されていたのとは対照的だった。寄る辺のない玲庵先生は、しばしば安西に金を無心していた。
 苦しい生活のなかにあっても、僅かな光明もあった。
 玲庵先生は安西の薦めで、安西家の女中として働いていた理恵子との縁談を持ちかけられる。若くて従順、それに美しかった理恵子は、玲庵先生にとっては勿体ないくらいの相手だった。だけど、家を飛び出して後ろ盾のない玲庵先生は返事一つで理恵子を娶るわけにもいかなかった。
 不承不承、玲庵先生は出奔した実家へ戻る。そこで初めて、父の死を知る。実家へ留まっていた妹の話では、父は陸軍予備隊に配属された名簿に息子の名をみつけ、ひどく消沈していたという。去年の冬に庭の石段から転落、腕を骨折し、大がかりな手術を受けたけれど経過が悪く、最後は肺炎と敗血症を併発して亡くなった。病床にあって「いさおはまだ帰ってこんか」と譫言のように繰り返していたと言う。
 玲庵先生は父の残した僅かな遺産を相続し、理恵子と結婚したが、子宝には恵まれなかった。先生はそのことで奥様を責めることはなかったけれど、鎌倉の別宅に愛人を囲い、その妾に三人の娘を産ませる。先生はそのことを奥様にひた隠しにしていた。
 そんな中、一部で著名だった洋画家の秀麗先生に弟子入りすることになる。秀麗先生に弟子入りしてすぐ、鶴岡の公募に入選し、初めて展示会に絵が並ぶ。先生にとっては生涯もっとも幸せで穏やかな時代。

 ぼちぼちと絵も売れはじめ、兼業しなくともようやく一本立ちできるところまでこぎ着けたけれど、画壇に名を連ねるようになった安西と比較され、画商から「安西の弟子」と紹介されるなどの屈辱を受けることが増える。先生は恩義のある安西に嫉妬を覚えることはなかったそうだけど、安西と知り合いというだけで、画商や客の態度が急変することを快くおもっていなかった。そのわだかまりはやがて、ある事件をきっかけに爆発する。
 安西は大きな画廊を持つ湯島浩三をパトロンに持っていて、玲庵を会食に誘って紹介する。そして安西は、そこで信じられない話を持ちかけた。
「湯島に絵はわからん。あいつは拝金主義の見下げ果てた奴だが、上客の人脈をもっておる。どうだ、綾川。ひとつ吾輩の名で絵を描いてみんか。今のままでは妾の娘を三人も養っていくのは辛かろう」
「贋作を描けと言うのか」
「そうじゃない。いいかね、吾輩もお前も自分の絵にサインを入れない。つまり、どちらの絵とも区別のつかないまま持ち込み、湯島の画廊に飾れば、吾輩の絵としての値打ちがつく。これはお前にしかできないことだ。敢えて贋作など描かなくとも、お前の才能を以てすれば、吾輩の新作として評価を確かなものにするはずだ」
 玲庵先生はそれを聞いてどうおもったかはわからない。どうおもったにせよ、玲庵先生は言われるがまま、自分の絵を安西の絵として湯島に納めるようになった。玲庵先生の絵と安西の絵は画風が似ていたし、玲庵先生自身もそのことを自覚していた。そして、安西の絵が世間に認められる理由もしっていた。これほど画風が似ていても、安西の絵は陶然とした純粋さと迫力を以て観る者に迫るが、玲庵の絵はこぢんまりとして繊細、それに世俗的過ぎて、安西の修作のようだと揶揄されることも少なくなかった。
 玲庵先生は安西の絵を売るようになって、生活が豊かになった。その代わり、絵を描くことに対する情熱を失った。なにか大切な魂を売り渡したような気分だったという。
 そして事件が起こる。
 玲庵先生の妻の理恵子が、初めての子供を身ごもったまま急逝する。それと同時期に、師の秀麗先生が逝去する。先生は妻を死に追いやったと自分を責め続け、しばらく絵筆を握れない精神状態に追い込まれてしまう。そんな玲庵先生に、安西はこう言ったそうだ。
「常日頃、貴族出のお前は吾輩のような成金を嫌っていたが、もはや貴様自身、銭の奴隷ではないか。黙って筆を執れ。それが厭なら貸した金を返してもらう。二科展にも受からない貴様には、俺の代役でしか画家としての才能を発揮できんだろう」
 安西は先生に絵を描かせるためにハッパをかけたところだけど、先生は激昂してしまい、金を返して縁を切ると言い出した。先生は以前より生活が楽になっていたけど、別段裕福になったわけじゃないから、借金を返せるほどのゆとりは到底無かった。奥様が亡くなってすぐに妾が別宅の現金を持ち出して蒸発し、三人の娘を養子として引き取ったことで、負担は重くなった。だから、先生は最初、父の残したこの屋敷を手放すことを考える。
 この事件を知ってか、湯島浩三から個人的な依頼を受ける。浩三が懇意にしている顧客の中に、とても身分の高い人物がいて、その人物がとくべつな絵を欲している、描いてみないか、と持ちかけた。
 その絵とは、少女の裸婦画であった。
 浩三は、裕福だが娘のいない安西には話をせず、美しい娘を三人も持つ玲庵に直接話をもってきた。いままでとは桁違いの報酬が約束される仕事。その話の中で、画廊に並ぶ安西として描かれた絵の売り上げが、大部分安西の懐に入っていた事実を知る。

 玲庵先生は、娘たちをモデルに絵を描く。
 幼い娘たちの美しい肢体を余すところ無く繊細な筆致で描き出すなか、玲庵先生のとくべつな才能が開花する。
 当時、今よりもずっと幼く、じっとしていることのできない娘たちに、微動さえ許されない絵のモデルは荷が重すぎた。最初は娘たちにお話しを聞かせたり、これが終われば外食に連れて行くとか、あたらしいべべを買ってやるなどと約束したり、さまざまな創意工夫で同じポオズを保持させることに腐心したのだけれど、それほど長続きしなかった。
 今度はお手玉やあやとり、歌留多や折り紙など、あまり動きのない遊びをさせて、その間に玲庵先生は絵を描いた。先生は娘たちの一挙手一投足に魅せられ、そのモオションの最も美しい流れを追った。だから、先生の絵は目の前のモデルとはまったく異なる絵を描く。人間の動作をとらえた絵。それは瞬間ではなく、しかるべき瞬間を予感させる絵だ。綾川玲庵として知られる今の画風は、こうやって人知れず誕生した。
 最初の絵が売れると、先生は湯島と結託し、この仕事をもっと手広くやりたいと持ちかける。もちろん、湯島も乗り気だった。玲庵先生は初めは湯島浩三を嫌っていたけど、湯島の晩年はもっとも親しくしていたという。湯島は絵のことは分からなかったけど、先生の絵を評したり、急かしたり、余計な注文をつけることはなく、絵を売ることだけに注力して、しばしば玲庵先生の調子を気遣ってくれていた。
 少女たちの裸婦画は、特別な顧客相手に次々と売れ初め、先生は安西に借金を全額返済する。その頃、新進の画家たちに絵を教えることが主な生業になっていた安西は既に大作を完成させるほどの体力もなく、長らく新作を玲庵先生に任せっきりにしていたせいもあって、画壇では過去の人であった。それとは正反対に、玲庵先生は四十にして突如認められ、湯島の画廊には玲庵先生の常設展が設けられる。
 玲庵先生はその人気にあっても、娘たちの絵を描くことを辞めなかった。むしろ、徐々にその絵は扇情的になり、過激になり、とうとう娘同士での猥褻行為に及ぶ。それがちょうど三年前、ぼくがこの屋敷に引き取られてきた頃だった。先生が最初からぼくに娘たちを抱かせるために引き取ったのかどうかはわからない。引き取られることが決まったとき、ぼくは先生に一度も会ったことがなかったから。

 そして先生は視力を失いつつある。もはやほとんど何も見えていない。もともと不自由な右脚を庇うために杖を突いているから、その杖が視力の補助に使われるようになったことにぼくたちはずっと気づいていなかった。
 画家が視力を失うということは、死んだのと同義だと、初音が言った。
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