R18恋愛官能小説 青山倉庫

びろうどカンヴァス

第2話「湯島画廊と皆藤良一」


 ぼくらは四つ立てに並んだ文机のうえに教科書とノオトを拡げ、自分で削った鉛筆を使って書き取りをする。
 ほとみは咲月に勉強を教えて、ぼくと果凛には甲斐武留が勉強を教える。甲斐さんは、名前負けした青白い痩身の書生で、ぼくが屋敷に来た翌年から綾川家に厄介になっている。甲斐さんは難しいことをかみ砕いて説明してくれるし、言葉も丁寧だ。ぼくの知る僅かな小学校の教員よりも、ずっと模範的な教師なのだ。
 この静かな学校は、ほんとうの学校で習うような勉強よりも、文学や、思想や、歴史に触れる機会が多くて、興味深い。だけど、甲斐さんは数学はからっきしだった。水上二十米を飛ぶ戦闘機が、十粁遠方から時速三百粁で接近するとき、対空砲を射角四五度で命中させるには、何秒後に斉射すべきか。そういう問題が苦手だった。ぼくたちにもわからない。そんな問題は、高等学校で習うような水準だ。すくなくとも、他の男の子たちと違って、ぼくは軍人にはなりたくないし、対空砲の射手は一番いやだ。
「失礼します」
 障子のむこうから琴音の声がする。
「はい」
 甲斐さんが答える。
 障子が開いて、琴音が膝を揃えたまま言う。
「旦那様が、お子様方を湯島様のところへ、お連れになります」
「すぐにですか?」
「はい」
 勉強を中断する。ぼくたちのなす事は、みんな玲庵先生の一存でとりやめになる。
 外に出ると、あの運転手の車と、鈍い臙脂色の車が並んでいる。ぼくたちは、臙脂色の車に乗せられる。林道をくだる。ぼくは果凛とほとみに挟まれて、後部座席に座る。咲月は助手席に乗る。後部座席のぼくたちはすぐにうつらうつらする。外出するのは楽しいけれど、湯島さんのところへ行くのはあまり好きではない。

 車が停まって、ぼくたちは煙草臭い運転手に揺り起こされる。
 停留所から石段をくだって、湯島家の門をくぐる。湯島家は石造りの高台にあって、庭のはじから海がみえる。まだ歌のへたくそな鶯が、藤の茂みで鳴く練習をする。菊子という女中が出迎える。玲庵先生はぼくらを待たずに先に上がり込んで、奥のお座敷で誰かと談笑している。
「そげんこつやけん、画壇に名前が載らんとですよ」と男性の声。
「画壇は根岸くんや小磯くんにでも任せておけばいいだろう」と先生。
「それで先生は一代で滅びるおつもりですか。もったいなか」
「あらあら、先生はおんなのお弟子さんをおとりになられたのよ」
 湯島なだみの声がする。
 湯島浩三は、玲庵先生の絵を買ってくれる画商で、九十を超えるお爺さんだったけれど、去年の冬に亡くなった。ぼくは浩三爺さんのことは好きだったけど、財産を相続した未亡人のなだみさんのことは好きではない。玲庵先生は風景画や普通の人物画を出展するけど、あまり高値はつかない。ぼくたちを描いた絵は、一般には公開されることなく、得意様に直接売買される。そちらの絵には安いものでも四千円以上の高値がつく。
 ぼくらが部屋に入る。お辞儀をして、こんにちはと挨拶する。ペルシャ絨毯とビクトリア調の家具が並ぶ。先生となだみさんはソファに並んで腰掛け、向かいの大きな椅子に体格の良い背広姿の男性が座る。ぼくらに挨拶を返す。ふうんと唸って顎をさする。先生は普段吸わない煙草を燻らせる。
「へぇ、この子たちが、モデルさんたちか」と男性が言う。
「モデルを連れ歩くのは好かんのだがね、この子たちも毎日屋敷に籠もっていると、息苦しかろう」
「ほら、坊主、こっちこんね」
 ぼくは男性の前に立つ。ポマアドのにおいがする。
「お名前は?」と男性。
「長友直央です」
「ナオとは、どう書くのだ」
「率直の直に、中央の央です」
「学校には、いっとらんのか」
「はい、いってません」
「いきたくはなかか」
 ぼくは首を横に振る。
「ハハハ、そうか。最近の小学生は徒党を組んで、教師と闘争を繰り広げる。そんな粗悪な組織にははいらんほうがよか」
 なだみさんが腰を上げる。先生そろそろ、と声をかける。玲庵先生は煙草の火を消して立ち上がる。女中と入れ違いに部屋を出る。男性は椅子に腰掛けたまま、珈琲のおかわりを貰う。ぼくらは女中に勧められるまま、先生が座っていたソファに並んで座る。
「大事な商談があるとばい」と男性が言う。
「皆藤様、お食事はどうなさいます?」と女中が尋ねる。
「食わん。今夜は財界のお歴々と懇親会たい」
 そう言って、男性はぼくらを指さす。
「みてみ菊子、あの絵のモデルたちだよ。先生の少女趣味もここに極まれりだ。とうとう自分の娘に飽きたらず、どこかから少年ば連れてきとっと」
「まぁ…」
「あの絵は空想じゃないっちゃろ、のう、直央くん」
 皆藤さんは大きな声を出す。ぼくは身を固くする。
「驚いていますわ。大きなお声で…」
「菊子、お前もみたろ。あれは写生ばい。想像じゃなか。先生はご自分が枯れたけん、代役ば立てんとならんから、こげん幼い子に枕ば仕込んどる。なんちゅうか、デカダンやね。まあばってん、俺は嫌いじゃないよ」
 先生となだみさんが戻ってくる。先生は帰るぞと言う。ぼくたちはお辞儀をして、部屋を出る。皆藤さんが、また来んね、と言う。先生の後に続いて屋敷を出る。杖をついて石段をのぼる先生の後ろ姿を眺める。ぼくが綾川家に来た頃に比べて、先生は髪が真っ白になった。背中が曲がった。ぼくたちとあまり喋らなくなった。
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